一
「親分、旅をしませんか、良い陽氣ですぜ」
ガラツ八の八五郎はまた斯んな途方もないことを持込んで來たのです。梅の花はもう梢に黄色くなつてゐるのに、今年の二月は妙に薄寒くて、その日も行火の欲しいやうな曇つた日でした。
「旅? 又なんか嗅ぎ出したんだらう。物見遊山には早いし、後生氣や金儲けで草鞋をはく柄ぢやなし」
錢形平次は煙管を投り出して、天文を案ずる型になるのでした。
「お察しの通りだ。實はね、親分、川崎の小牧半兵衞が殺されたんで――」
「なんだと? そいつは川崎切つての大金持ぢやないか」
「公方樣お聲掛りの家柄だ。この下手人を擧げなきや、土地の御用聞の顏が立たねえ。錢形の親分の引込思案は豫て承知の上だが、其處をなんとか乘出して貰へまいか――と川崎の孫三郎親分から態々の手紙ですぜ」
「そこで旅をしろ――といふのか。川崎や品川ぢや旅といふほどの遠道ぢやあるめえ。ところでお前は孫三郎親分を知つて居るのか」
「知つてゐるの段ぢやありません。去年友達と江の島へ行つた歸り、川崎の萬年屋から使ひをやつて、旅籠代と小遣を借りましたよ。十手の誼みでね」
「飛んでもねえ誼みだ、それは返したんだらうな」
「綺麗に忘れてゐましたよ。――今朝孫三郎親分から手紙を貰つて、そのとたんに一年前の借りを思ひ出したんで、へツ」
「呆れた野郎だ、いくら借りたんだ」
「二朱か一分ありやよかつたんで、さう言つてやると、孫三郎親分は自分でやつて來て旅籠屋の諸拂を濟ました上、その晩うんと飮んで江戸へ歸る路用が三兩――」
「川崎から江戸へ行列を組んで八枚で飛ばしたつて、三兩要るわけはねえ。それを默つて借りて來たのか」
「へエ、ツイね、借金に剩錢は出せねえからそのまゝ」
「馬鹿野郎」
平次もポンポン言ひましたが、ガラツ八の徹底した呑氣さには腹を立てる張合もありません。併しこんな事がきつかけで、江戸の御用聞の平次が、八州役人の支配してゐる、川崎まで乘出すことになつたのでした。
錢形平次と八五郎が、兎も角、土地の御用聞川崎の孫三郎の家に草鞋を脱いだのは、その日ももう申刻近い刻限でしたが、中年者の孫三郎は、下へも置かぬ喜びやうです。