本文へ移動
TORENDIA

錢形平次捕物控

本文約11,400字 ・ 読了時間 約23分

あらすじ(AIが作成しました)

江戸の矢の倉で、公儀御鞍打師の辻萬兵衞が寝巻姿で毒死する事件が発生する。町内の面倒見が良く厳しい指導で知られた主人の不審な死に、錢形平次と八五郎が調査に乗り出す。店には継承を巡る人間模様が渦巻き、平次は弟子たちの行動や部屋の状況から不自然な点を見つけ出し、犯人の影を追う。弟子による師への反逆と、その背後に隠された恐るべき感情の連鎖を軸に、江戸の闇に埋もれた真相を解き明かしていく捕物物語である。

野村胡堂

🎧 まだ音声版はありません

リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。

💰 この本を応援する(投げ銭)

1 / 14

一

「八、丁度宜いところだ。實は今お前を呼びにやらうかと思つてゐたところよ」

「へエ、何んか御馳走でもありますかえ」

錢形平次は、斯んな調子で八五郎を迎へました。この頃の暑さで、江戸の惡者共も大怠業をきめて居るらしく、珍らしく御用の方も閑だつたのです。

「呆れた野郎だ。御馳走ならお前を呼ぶものか、一人で喰ふよ」

「へエ、御親切なことで」

「今のは小言だよ、――昨日向柳原のお前の叔母さんが來て、お靜を相手に半日口説いて行つたよ」

「有難いことで」

「たまには年寄の言ふことも聽くものだよ。叔母さんは苦勞人だ、なか/\面白いことを言つたぜ」

「へエ?」

「甥の八五郎も三十に近いから、一日も早く嫁を持たせて、冥途の姉にも安心させ度いと思ふが、あの樣子では嫁に來てくれ手もあるまい。何とか世間並のたしなみだけでも身につけるやうに、折々は叱つてやつて下さいと――ね」

「へエ」

「聞けばお前は、晝の着物のまゝで、床にもぐり込んだり、褌で顏を拭いたりする相ぢやないか」

「叔母さんはそんな事を言ひましたか」

「あんな躾はした覺えはないが、色氣がないにしても困つたものだ――と大こぼしよ」

「色氣の方は滿々としてゐるんだが」

「尚ほ惡いやな」

平次は叔母に頼まれただけの小言を一と通り取り次ぎましたが、これが誠に儀禮的で、言ふ方も言はれる方も一向身につきません。

「その躾で思ひ出したわけぢやありませんがね、矢の倉の御鞍打師辻萬兵衞といふのを親分は知つてゐるでせう」

ガラツ八は妙なことを言ひ出しました。

「知つてるとも、公儀御用の御鞍打師だ。鞍打師は外にもあるが、人間が一國で几帳面で、義理堅くて口やかましくて、早い話が、うるさい方では江戸一番と言はれた男だ」

「そのうるさい男が、金が溜つて商賣が繁昌して、娘が綺麗で申分のない暮しをして居るのに、毒を呑んで自害したとしたらどんなもので?」

八五郎はこんな人じらしな事を言つて、長んがい顎を撫で廻すのです。

「貧乏人が死に急ぎするとは限るまいよ。金持だつて死に度くなる事があるだらうぢやないか」

野村胡堂の他の作品

同じジャンルの朗読つきの本