TRENDIA CLASSIC

錢形平次捕物控

野村胡堂

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心中でもしようといふ者にとつて、その晩はまことに申分のない美しい夜でした。

青葉の風が衣袂に薫じて、十三夜の月も泣いてゐるやうな大川端、道がこのまゝあの世とやらに通じてゐるものなら、思ひ合つた二人は、何んのためらひもなく、水の中へでも火の中へでも飛び込み度くなることでせう。

神田鍋町の雜穀問屋、三芳屋彦兵衞の甥の音次郎と、同じ店に奉公人のやうに働いて居る、遠縁の娘お京は、晝の内に打合せて置いた通り、その晩の亥刻半(十一時)に、元柳橋の橋の袂で落ち合ひました。

死ぬ約束で同じ店に居る二人が、手に手を取つて脱け出して來るのは容易でなく、萬一人に見とがめられて、引戻されでもすると恥の上塗りですから、音次郎は本所から深川へかけて、お得意先を廻るといふのが口實。最後に相生町の叔母さんの家で宵を過して、元柳橋へ駈けつけた時は、もう相手のお京が、橋の袂の柳にもたれて、苛々しながら待つて居るのでした。

朧月に透して見るまでもなく、磁石と鐵片のやうに、兩方から駈け寄つた二人が、往來の人足の疎らなのを幸ひ、犇と抱き合つた時、

「まア、よかつた」

お互にさう言つたのも無理のないことです。

「誰にも見付かりはしなかつたかえ」

音次郎は少し離れて、月の光に惚々とお京の顏を透しながら訊くと、

「え、皆んなはもう私が寢たことと思つてゐるでせう。いつものやうにお仕舞をして、叔父樣の肩を揉んで、戸締りを見廻つて、自分のお部屋へ入つて――、それからそつと脱け出して來たんですもの」

この期に臨んでもさすがに若い娘は行屆きます。

「大層綺麗だよ、今夜は」

そんな中でも嗜みの化粧をして、晴れ着の銘仙の袷、死出の旅は、嫁入りするやうな晴れがましさでせう。

「でも」

お京は身を揉んで、極り惡さうに、男の懷中に顏を埋めます。夜風の匂ふのは、娘の體温に薫蒸された、掛香らしい匂ひ。

「私は本所のお得意先から預かつて來たお金が三十兩、これをお店へ屆けずに死んでは氣になるけれど――」

音次郎は内懷中深く忍ばせた財布の中の、三十兩の小判に氣が遺る樣子でしたが、今更それはどうすることも出來ません。

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