一
八五郎は獨りで、向島へ行つた歸り、まだ陽は高いし、秋日和は快適だし、赤トンボに誘はれるやうな心持で、フラフラと橋場の渡し舟に乘つて居りました。
懷中はあまり豐かでないが、新鳥越の知合を訪ねて、觀音樣へお詣りして、雷門前で輕く一杯呑んで、おこしか何んか、安くて嵩張るお土産を買つて、明神下の錢形の親分のところへ辿り着くと、丁度晩飯時になる――と言つた、まことに都合の良いスケジユールを組んで、舌なめずりをしながら、向う岸の橋場に着くと、船頭の粗相か、客が降り急いで、船を傾けたせゐか、乘合船は思ひも寄らぬ勢ひで、岸から張り出した足場へ、ドシンと突き當つたのです。
「あつ」
八分通り船を埋めて出た乘合は、先を急ぐともなく總立ちになつたところ、見事な煽りを喰つて、どつと雪崩れました。危ふく將棋倒しになるのは免れました。が、
「あれツ」
端つこに立つて居た八五郎は、側に居た若い女に獅噛みつかれて、一とたまりもなく船の外へ、横つ倒しに飛び出してしまつたのです。
「あ、ぷ、ぷ」
八五郎は少しばかり水を呑んだかも知れません。が、胃の腑が丈夫な上、その頃の隅田川は、底の小石が讀めるほど水が綺麗だつたので、大した神經を病む必要もなかつたのです。
川はもう淺くなつて居て、立てば精々膝つきり、命に別條のある筈もなかつたのですが、何分にも双手を懷中に突つ込んで、だらしのない彌造を二つ拵へて居たので、水中の働き思ふに任せず、船頭に襟髮を取つて引揚げられた時は、實に思ひおくところなくヅブ濡れになつて居りました。
「濟みません、親分。飛んだ粗相で」
相手が惡いと思つたか、船頭は鉢卷を取つて挨拶しました。
『――うぬがどぢのせゐぢやないか』と腹の中では思つたにしても、稼業柄ポンポン言ふことも出來なかつたのです。
「なアに、此方もうつかりして居たんだ。心配することはないよ」
八五郎は人の好い事を言ひながら、袖やら裾やらを絞つて居ります。