私の履歴書
本文約34,200字 ・ 読了時間 約69分
あらすじ(AIが作成しました)
播州平野の農家に生まれた長谷川貞吉は、14歳で奉公に出たことを皮切りに、極貧や放浪を繰り返す波乱の青年期を過ごす。明治42年、東京の二畳一間で将来に迷う中、占いの導きで「紙」の仕事を選ぶ。どん底の生活の中でも屈しない忍耐心と野心を胸に、やがて段ボールを手がける実業家として成功を収めるまでの半生を振り返り、自らの人生の指針と、妻との絆、そして現役の実業家としての未来への意欲を綴る回想録。
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「よし偉いもんになったるぞ」
『紙にしようか、メリケン粉にするか』。私はまだ迷っていた。明治四十二年、二十九歳のときである。朝鮮から満州、香港と流れ歩いた末、やっと見つけた東京での二畳の部屋。そこへ大の字にひっくり返って、天井の雨漏りのしみをながめながら考えたのはこれからのことだった。紙というのは後に私が名づけ親となった段ボール――いまではテレビなどの電機製品の紙ばこ材料になっている、あれである。あるいはメリケン粉を練ってパン屋でも始めるか……私には思案にあまることだった。そんなとき、ふと耳にしたのは練塀町の稲荷おろしのことである。考えあぐねた私は早速そこへ飛び込んだ。
巫女は白髪の老婆だった。御幣をあげさげしているうちに、体が踊り出す、目がつり上がる。巫女はうわずった声でいった。『ほかはいかん、いかん。紙じゃ、紙の仕事は立板に水じゃ……』。よし、これで決まった。私は五十銭払って、二畳のねぐらへ道を急いだ。それから五十年、私はカミのお告げにしたがって、紙にしわを寄せながら生きてきた。
人生の道程でいくたびか出会った分かれ道、そのどこかひとつが変わっていれば、私はいまとは全く違ったものになっていたであろう。初めの奉公先を飛び出した十五のころ、汽車賃が足らず伊勢参りをやめて横浜へ流れたとき、木曜島に売り飛ばされる寸前、香港で阪大佐太郎に救われたあの日。まるで鉛筆を立てて、その倒れぐあいで人生航路を決めていたような私だったが、私と段ボールとをつなぐ見えない糸はいつもたぐられていたのであろうか。
段ボールを手がけてからは、人生のサイコロの目は、まずまず順調に出た。しかしそれまでの私はなんと遠回りをしたことだろう。そんなとき「寝れば一畳、起きれば半畳、五合とっても三合飯」という明るさと『いまにえろなったるぞ』との人一倍の意欲が、私の力になった。――話をさらに二十年ほど戻して、私のふるさとの村へ返そう。