床屋の壁鏡
神楽坂通りの中程、俗に本多横町といって、そこから真直ぐに筑土八幡の方へ抜ける狭い横町の曲り角に、豊島という一軒の床屋がある。そう大きな家ではないが、職人が五、六人もおり、区内の方々に支店や分店があってかなり古い店らしく、場所柄でいつも中々繁昌している。晩になると大抵その前にバナナ屋の露店が出て、パン/\戸板をたたいたり、手をうったり、野獣の吠えるような声で口上を叫んだりしながら、物見高い散歩の人々を群がらせているのに誰しも気がつくであろう。
私はその床屋へ、まだ早稲田の学生時代から今日までずっと行きつけにしている。特にそこが他よりすぐれていいとかうまいとかいう訳でもないが、最初その辺に下宿していた関係で行き出したのが元で、何となく設備や何かの感じがよいので、その後どこへ引越して行っても、今だに矢張り散歩がてらにでもそこまで出掛けるような次第である。数えるともう十七、八年もの長い年月である。その間私は、旅行その他特別の事情のない限り、毎月必ず一度か二度位ずつ、そこの大きな壁鏡に私の顔をうつし続けて来たわけであるが、する中いつか自分にも気のつかぬ間に、つや/\した若々しい青年だった私の顔が、皮膚のあれゆるんだ、皺深い老人じみたものに変り、自ら誇りとしていたほど濃く、且つ黒かった頭髪が、今はすでに見るもじじむさい胡魔塩に化してしまった。
『随分お白いのがふえましたね』
『ううむ、この頃急に白くなっちゃった。まだそんな年でもないんだけれど……』
『矢張り白髪のたちなんですね、よくこういうお方がありますよ』
『何だか知らないが、実際悲観してしまうね』
大分以前、まだそこの主人が職人達と同様に鋏を持っていた頃、ある日私の髪を刈り込んでいる時、二人はそんな会話を取りかわした。見ると併しそういう主人自身の頭も、いつかしらその頂辺が薄く円くはげているのだった。
『君も随分変ったね』