錢形平次捕物控
本文約30,700字 ・ 読了時間 約62分
あらすじ(AIが作成しました)
錢形平次の住む明神下へ、ガラツ八こと八五郎が、市ヶ谷の大地主・上總屋の用心棒を務めることになったと報告に訪れる。当主の留守中、女世帯であるその屋敷では不気味な出来事が続いていた。後に上總屋で起きた事件に対し、平次は持ち前の鋭い洞察力を駆使し、屋敷の住人であるお常による緻密な仕掛けや、お紋に対する嫉妬心といった事件の真相を解き明かしていく。江戸の平和を守る岡っ引の活躍を描く捕物控である。
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一
「親分、面白い話がありますよ」
お馴染のガラツ八こと八五郎、髷節へ赤蜻蛉を留めたまゝ、明神下の錢形平次の家へ、庭木戸を押しあけて、ノソリと入つて來ました。庭一パイの秋の陽に、長んがい影法師を泳がせて、この上もなく太平無事な姿です。
「髷節を赤蜻蛉の逢引場所にしてゐるやうな野郎だもの、この世の中が面白くてたまらねえことだらうよ」
平次は腰から下だけ椽側に出して、秋の生温かい陽を享樂しながら、腹ん這ひになつたまゝ、ものの本などを讀んでゐるのでした。
「何を讀んでゐるんです、大層面白さうぢやありませんか。矢張り金平本と言つたやうな?――」
「馬鹿だなア、そんなものを大の男が、ニヤニヤしながら讀んでゐられるものか」
「へエ、親分は學があるからたいしたものだ。――笹野の旦那もさう言つて居ましたよ。平次は四角な字も讀めるから、唯の岡つ引には勿體ないつて」
「チエツ、古渡りの岡つ引が聞いて呆れらア、俺は唯の岡つ引で澤山だよ」
「すると、その面白さうな書物は、矢張り岡つ引の傳授書見てえなもので?」
「間拔けだなア、まだ岡つ引にこだはつてやがる――こいつはそんなイヤな本ぢやないよ。北村湖春といふ人が書いて、近頃評判になつてゐる『源氏物語忍草』といふ日本一の好い男のことを書いた本さ」
「へエ、日本一の好い男ですかえ?」
「不足らしい顏をするなよ、お前と張合ふ氣遣けえはねえ。昔々の大昔の色男だ。光る源氏と言つてな、まるで八五郎に垂直を着せたやうな男さ」
「間拔けた話で、――烏帽子を冠つて女の子を口説く圖なんざ、たまらねえ」
八五郎は平掌で額を叩くのです。
「ところで、お前の方の面白い話といふのは何んだえ」
平次は起き上がつて煙草盆を引寄せました。
「親分の前だが、あつしは妙なところから用心棒に頼まれたんですがね」
「まさか賭場ぢやねえだらうな」
「飛んでもねえ。あつしが勝負事の大嫌ひなことは、親分も知つて居なさるでせう。挾み將棋でも、ジヤン拳でも勝つたためしがねえ」
「そんな事が自慢になるものか。それぢや見世物かお茶屋か、それとも比丘尼長屋か、いづれにしても十手を捻くり廻して、筋のよくねえ禮などを貰ふと承知しねえよ」