TRENDIA CLASSIC

錢形平次捕物控

野村胡堂

1 / 27

發端篇

一 「親分、變なことを聽きましたがね」

ガラツ八の八五郎は、薫風に鼻をふくらませて、明神下の平次の家の、庭先から顎を出しました。いとも長閑な晝下りの一齣。

「お前の耳は不思議な耳だよ、よくさう變つたことを聽き出せるものだ。俺の方は尋常なことばかりさ、蒔いた種は生えるし、借りた金は返さなきやならねえし」

平次は氣のない返事をしながら、泥鉢に出揃つた、朝顏の芽をいつくしんでゐるのでした。

「あつしの方はまた、變つたことばかり、手紙をやつてもあの娘は返事をくれないし、借金は溜つても、拂ふ氣になれないし」

「あんな野郎だ、――ところで、その變つたことと言ふのは何んだえ」

平次は手の泥を拂つて、椽側に腰をおろし腹ん這ひになつて、煙草盆を引寄せるのです。

「こいつは變つてますよ。影法師に憑かれた話なんですが――」

「影法師に憑かれた?」

成程それは話が變り過ぎてゐます。

「四ツ谷の與吉が、淺草へ行く道序に、半日無駄話をして歸りましたが、その時の笑ひ話ですよ」

江戸中にまかれた何百人の岡つ引は、八五郎に好意を持たないものはなく、わけても腕に自信のない者は自分の繩張り内に起つた事件の匂ひを、八五郎の耳に入れて置けば、親分の錢形平次が乘出してくれないものでもなく、平次が動き出せば、自分も飛んだ手柄のお裾わけくらゐにあり付けないものでもありません。

そんなことで、江戸中の面白い噂は、自然八五郎の耳に入り、八五郎の口から、斯う平次に取次がれることになるのです。

「影法師に憑かれたといふのは、何處の誰だえ」

平次もいくらか好奇心を動かした樣子です。

「市ヶ谷柳町の菊屋の伜彦太郎といふのが影法師が怖くて、月夜の晩などは、外へも出られないといふから可哀さうな話ぢやありませんか。あつしなんかは戀敵が多いから、怖いのは闇夜の晩だけで、へツ」

八五郎は自分の洒落に堪能して、長んがい顎を突き出すのです。

「自分の影法師が怖いのか」

「自分のなら、素性がわかつてゐるから、怖くも可笑しくも何んともないが、不思議なことに、彦太郎といふ若い男の眼には、何處の誰とも知れぬ、怪しい影法師が附き纒つてゐるといふのですよ」

「はてね」

野村胡堂の他の作品