一
「親分、――ちょいと、八五郎親分」
ガラッ八は背筋を擽られるような心持で振り返りました。菊日和の狸穴から、榎坂へ抜けようというところを、後ろからこう艶めかしく呼止められたのです。
「どこだ」
グルリと一と廻り、視線で描いた大きい弧がツイ鼻の先の花色暖簾の隙間を見落していたのです。
「ここよ、ちょいと、親分」
「なんだ、――俺を鴨だと思っているのか」
ガラッ八は背を向けました。茶店の姐さんが、客の無い怠屈さに、顔見知りの自分へ声を掛けたのだろうと思ったのです。
「あら、私はここの姐さんじゃありませんよ。神田から親分の後を跟けて来て、御用の済むのを待っていたんじゃありませんか。ちょいと、お顔を貸して下さいな、内々のお願いですから」
肩で暖簾を揉んで、輪郭が霞むような真っ白な顔を出したのは、二十一、二の女、素人とも玄人ともつかぬ、抜群の艶めかしさを発散させます。
「御免を蒙ろう、俺は忙しい、――御用繁多だ」
ガラッ八は独り者の癖に、若い女には妙に突っ剣呑でした。いやどうかしたら、独り者だからかえって若い女には無愛想だったのかも知れず、若い女に無愛想だから、いつまで経っても独り者だったのかもわかりません。
「ホ、ホ、ホ、ホッ、ホッ」
女はいきなり笑い出しましたが、麻布中の空気を薫蒸するような笑いです。
「何が可笑しい」
ガラッ八は弥造を肩のあたりまで突き上げて、拳骨の先から相手の女を睨め廻します。
「だって、御用繁多な方が、一軒一軒菊細工を覗いて、一刻半(三時間)も油を売ってるんですもの」
「何?」
「その癖、お茶も呑まずに引返すじゃありませんか。良い御用聞がそんな心掛けじゃ、世間が穏やかなわけねえ」
「…………」
ガラッ八は弄ばれているような憤懣と、妙に腹の底からコミ上げてくる愉悦を感じました。女の調子には、皮肉な色っぽさがあって、羽根箒で顔中を撫で廻されるような心持だったのです。