TRENDIA CLASSIC

焔の中に歌う

野村胡堂

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温かい、香ばしい芙蓉の花弁が、そっと頬に触れた――。

そう感じて深井少年は眼を開きました。

多分今まで気を喪なって[#「喪なって」はママ]居たのでしょう、四方を見ると、全く見も知らぬ華麗な室の、南寄の窓の下に据えた、素晴らしい長椅子の上にそっと、寝かされて居るのでした。

「気がおつきになって? まあよかった」

紅芙蓉の花弁と思ったのは、額口へ近々と寄った、この女の唇だったかも知れません。しかも、その美しい唇から、ビロードのようなタッチの滑らかな言葉が、深井少年をいたわるように、斯う響くのでした。

「随分心配したワ、これっ切り死なれたら、何うしようと思って――全く運転手のそそうよ、堪忍して頂戴ね、こんな可愛らしい坊っちゃんを殺したら、私はまあ、どうしたでしょう――」

深井少年の頭には、漸く記憶が蘇って参りました。

先刻――いや、それは昨日だったか一昨日だったか、それともツイ今し方だったか、はっきりは判りませんが――兎に角、フランス語の文典を暗誦し乍ら、番町の淋しい通りをやって来ると、いきなり横町から自動車が驀進して来て、アッと言う間もなく車輪にかけられた――。

そこまでは知って居りますが、それから先は何んにもわかりません。

自動車に擽かれたという記憶が蘇えると同時に、深井少年は本能的に身体を動かして見ました。何んとも言えない不安が、少年を駆ってそうさしたのです。けれども、仕合せな事に、手も、足も、頭も、胴も、別に痛むところはありません。

「マアそんなに手足を動かして、亀の子のようよ――、でも何処もお痛みはありません? 一寸立って御覧なさいな――マア、大きな坊っちゃん」

深井少年は長椅子から飛降りるように、すっくと立上って見ました。

この婦人は無遠慮に「坊っちゃん、坊っちゃん」と言いますが、深井少年は今年からもう大学生なのです。

尤も顔立が何んとなく若々しいから、友達はからかい半分に「深井少年、深井少年」と言い慣わして居りますが、本当は深井清一といって、もう取って二十歳、深井少年と言われるのさえいい心持がしないのに「いくら何んでも、坊っちゃんはヒドかろう」深井少年は少しムッとしたものです。

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