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TORENDIA

水墨

本文約2,400字 ・ 読了時間 約5分

あらすじ(AIが作成しました)

下町の火の手が迫る中、大切な文徴明の軸と古墨を抱えて避難する筆者が、水墨画における芸術的価値や技法を論じる。良質な墨が持つ奥行きや、羊毛筆と紙の特性が織りなす触覚的な美しさを考察し、東洋と西洋の風景画に対する視点の違いや、自然の本質を見つめる心の重要性を綴る。水と墨が紙上で偶然と調和を生み出す過程を通じて、芸術と生活が一体となる東洋的な精神の境地を深い思索とともに提示する。

小杉放庵

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🎧 水墨 / 朗読音声: VOICEVOX:波音リツ

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九月二日の頃、下町の火の手怖ろしく、今にも根津の方角へ延びて来そうに見え、根津に来れば、自分の宅あたりも一なめになるかならぬかというところ、ともかく家中のものの不安が、遂に一応家財の始末をせしむる事となる、妹が、兄さんのものは何と何ですか、と問う、文徴明の軸と墨だけ、行李の隅へ入れて置いてくれと答えた。

古の大家も、作ったもの必ずしもみな名作ならず、名作は又、どんな素人にも、永い間にはその尊い匂いを浸潤し、何かの際には、まずあの絵だけはと、持ち出して立ち退くであろう、かかることが度重なって、名作は残る場合多く、然らざるものの方が、より多く水火に亡びたであろう、私の持っている掛物らしい掛物は、文徴明の一軸のみながら、出来が良いので、いつも心にかけて粗末にせぬ。

墨は、唐墨の古いのを、一生には用い尽すまじき程貯えた、いにしえの言葉に、墨を惜しむ事金の如しというが、金は得ることある可し、古墨の良きものは再び作られず、もし心にも手にも合った良墨であろうならば、同量の金とは換えかぬるであろう、文徴明の一軸は、良き芸術なるが故に惜しみ、十数片の古墨は、これから良き芸術を作ろうと思うが故に惜しむ。

水墨の絵を作る程の人にして、墨の良否に関心せぬという者あらば、あれは水墨というものについて、根本的に智識なく、又愛なきものである、薪の燃えさしを以て、台所の壁に描いても、勿論、良きデッサンは獲られる、水墨の妙味は、かかる問題の外に在る、良き紙もしくは絹の上に、よき墨の色の、淡く濃くかかった味わい、淡きにも限りなき階段、濃きにも限りなき節調、水と墨、紙と絹との間に、あるいは偶然の妙趣を現わす、この偶然がホントでないという人もある、知らぬ人のいう事、予期されたる偶然は、実は偶然の部類に入らず、拙なき画人は、悪しき偶然にのみ出会い、巧みなる画人は善き偶然にのみ出会う。

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