一
「捕物小説」というものは、好むと好まざるとに関せず、近頃読書界の一つの流行で、大衆雑誌の編輯者が「捕物小説を一つ入れなければ、売る自信が持てない」というのも、決して誇張やお世辞ではないようである。
十年二十年ほど前には、やくざ小説がはやり、明治の初年には、義賊小説や泥棒芝居が恐ろしい勢いで、創作演劇の世界を風靡した。そのいずれにも共通な性格は、英雄的で、多分に反社会的な傾向を持ったものである。今日の捕物小説は同じく英雄崇拝的な傾向を持ったものであるが、むしろ根底に横たわる思想は遵法的又は人道的で、その点やくざ小説又は義賊小説とまったく異なり、同じ系統の小説らしく見えながら、新しい読者を獲得した所以だろうと思う。
その意味において捕物小説は、単なる犯罪小説又は怪奇小説であってはいけない。あえて世道人心を裨益しようなどという、大それた自惚は持っていないまでも、娯楽に重点を置き過ぎ、読者の好奇心に阿って、人の子を毒するようなことでは、遅かれ早かれ、世の中から見捨てられる時期が来るだろう。捕物小説に一脈のヒューマニズムの匂うのは、捕物小説のためには、保身延命の保護策でなければならない。
二
では、捕物小説は、どれだけの特色があるかといわれると、一般大衆小説と同じように、それは娯楽的な役目を果たすばかりでなく、探偵小説の範疇に属するものとして、スリルとサスペンスの刺戟になる読書子の食慾に満足を与え、さらに作中の主人公と共にトリックを解いていくスポーツ的興味の外に、何がなし、特別なものを持っていなければならないはずである。
その一つは、江戸時代を描くことに依って味わい得る郷愁への訴えである。髷を結って刀を差していた江戸時代、青酸カリもピストルも無かった江戸時代は、馬鹿馬鹿しい義理人情に歪められた時代ではあったが、同時に、吉原と猿若町の空気が、不健康ではあるにしても、一種微妙な江戸情緒を醸し出し、そこに生まれた幾多のロマンティストが、想像も及ばぬ美しきものを織り出した時代でもあったのである。