TRENDIA CLASSIC

ある偃松の独白

中村清太郎

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剱岳列嶂(後立山布引より)

[#改丁]

これは私の前著「山岳渇仰」――戦時最悪の条件下で生れた――に次ぐ第二集で、あれに洩れたものと、その後の文章から選んで、ささやかな一本に纒めたものである。書名はその中の一篇から採った。

山は私にとって全くありがたい存在なのである。いつからか私は山に向えば、思わずぬかずき、拝む癖がついている。いわば山は、わたくし流の自然教の偶像といってもいい。

思えば明治の探検期以来、半世紀を越える年月を、山の恵みにあずかってきた私は、まことに仕合わせであるが、山も時代の外に超然たるわけには行かなかった。今そこには、探検時代に無かった山気の混濁がある。単に炭酸ガスの増加だけではない。一種の悪気が漂うのだ。そして何か山に対する心に欠けたところがある。

それが、ひいて山の自然を破壊する。人間の精神活動の源泉たる自然、その大切な宝庫を、みずから破壊する矛盾をおかしている。遭難はおろか、暗い霧のかなたを指す導標に、〈民族自滅へ〉と書かれていなければ幸いである。

畏れと、慎しみと、感謝と、それに自然を敬重する知恵が要望されること、今日より切なるはない。

昭和三十五年早春、頼もしき鶯の声を味わいつつ 阿佐ヶ谷の七葉山房にて 清太道人

梅が香や雷鳥の影まぼろしに [#改丁]

春雪写山行

どこから降るのかいつまで降るのか、分らぬような山の雪も、旧正月が峠でようやく間遠に、いつか角度を高めた陽光は、積雪に映発する。久方ぶりに天上の峰たちも、新しいおもてを輝かし合う。長夜の銀世界に、かくて春は明けそめるのだ。この頃画嚢を提げて山に入るこそ何らの清福。今年もそのため、冬山のつかれがぬけないのに又旅支度だが、去春の蓮華山中も実によかった。当時の山日記を翻えしても、あの熱い光りを浴びる心地だ。

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