いまや白衣をぬいで浄光をはなつ山々、しずまりたもうかたを拝んで筆をとる。秩父おろしが枯葉をまいて、思いは首筋から遠く天外をかけめぐる。そこにまたしてもかずかずの、すぎし山間遍歴のあとがあらわれる。そしてなんたるしみじみしい景色だ。ゆったりした景色だ、清らかな景色だ。
ゆらい老人は、むかしを語るをこのむという、そうかも知れない、が、なんでもむかしのものはよく、いまのものはわるいなどとは、そこにたしかにぐちがあろう。しかも山のむかしを渇仰するのは、けっしてそんな亜流ではない。老人でもないわたしでさえ、むかしというほどでない二十何年の山を、そんなにもなつかしむのは、ひとつはそれほど山のおもむきがわるく変わってしまったからだ。そのころの山はまだいかにも山らしい山であった。いまは――山の大彫像は、いぜんとして厳乎天半を領している、しかしちかづいてみると、そこにもここにも人間の猪口才がみにくいものをふりまいて、その荘厳をよごしている。便利になったという、まことに。しかしさすが自然のにおいも一歩しりぞいている。ちかづいたつもりが、あるいはかえって遠ざかったのではないか。しょせん文化にばかされてはいけない。気のどくなのはいま山に機縁をもとめるひとだとさえおもわれる。われわれはまだ幸いだ、おもいでのとびらをひらいて随時にその功徳にあずかれるから。ねがわくば山を山らしくまもることをこころがけたい、厳粛敬虔の念をもって山の万事に処してもらいたい、開発は必至である、いたずらに逆行をゆめみるのではない、ただ開発に第一義をわすれない慎みが肝要なのである。六歳の幼児を近県の山につれていった、登山電車があり、よいみちがあり幼児はよろこんだ、そしてきいた。
――山はどこにあるの?
――これが山じゃないか
このこたえは、しかしはなはだ力がなかった。