TRENDIA CLASSIC

或る母の話

渡辺温

1 / 9

母一人娘一人の暮しであった。

生活には事かかない程のものを持っているので、母は一人で娘を慈しみ育てた。娘も母親のありあまる愛情に堪能していた。

それでも、娘はだんだん大人になると、自分の幼い最初の記憶にさえ影をとどめずに世を去った父親のことをいろいろ想像する折があった。

『智子のお父さんは、こんなに立派な方だったのだよ――』

母親は古い写真を見せてくれた。

額の広い、目鼻立ちの秀でた若者の姿が、黄いろく色褪めて写っていた。

『ほんとに、随分きれいだったのねえ。――お母さん、幸せだったでしょう?』

『そりゃあ、その当座はね――』

『思い出して、愁しくなること、あって?』

『死んでから、もう二十年近くにもなるんだもの。それに、この写真みたいに若い人じゃ、まるで自分の息子のような気がしてね。……』

母親はそう云って笑った。だが、娘は、母親の若よかな靨のある頬が鳥渡の間、内気な少女のように初々しく輝くのを見た。

『そうね、あたしだって、こんな若いお父さんのことを考えるのは変な気がしてよ。』

『いっそ、お前のお婿さんなら、似合いかも知れない――』

『ひどいお母さん。――でも、お母さんは、どうしてそれっきり他所へお嫁にいらっしゃらなかったの?』

『どうしてって。――お前のお父さんのことが忘れられなかったし、それにあんまり悲しい目に会うと、女は誰でも臆病になってしまうんだろうね。』

『さびしかったでしょう?』

『少しの間さ。すぐにお前が、みんな忘れさせてくれるようになったもの。……』

母の声は草臥てでもいるように聞こえた。

娘は、若い時になら自分よりも器量よしだったに違いない面影の偲ばれる母親が、そんなに早く青春から見捨てられてしまった運命を考えて胸を窄めた。

その年の春、智子は女学校の高等科を卒業して、結婚を急ぐ程でもなし、遊んでいるのも冗だったので、小遣い取りに街の或る商事会社へ勤めた。

朝霧の中に咲いた花のような姿が、多くの男たちの目を惹いたのは云う迄もなかった。智子は、併し、賢い考え深い生まれつきだったので、何時も上手に身を慎しむことが出来た。

さて、夏の始めだった。――

渡辺温の他の作品