TRENDIA CLASSIC

妖怪年代記

泉鏡花

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予が寄宿生となりて松川私塾に入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他に密に期することのありけるなり。

加州金沢市古寺町に両隣無き一宇の大廈は、松山某が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧は旗野と謂へりし千石取の館にして、邸内に三件の不思議あり、血天井、不開室、庭の竹藪是なり。

事の原由を尋ぬるに、旗野の先住に、何某とかや謂ひし武士のありけるが、過まてることありて改易となり、邸を追はれて国境よりぞ放たれし。其室は当時家中に聞えし美人なりしが、女心の思詰めて一途に家を明渡すが口惜く、我は永世此処に留まりて、外へは出でじと、其居間に閉籠り、内より鎖を下せし後は、如何かしけむ、影も形も見えずなりき。

其後旗野は此家に住ひつ。先住の室が自ら其身を封じたる一室は、不開室と称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。

然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然せる怪無きも、後住なる旗野の家に吉事ある毎に、啾々たる婦人の泣声、不開室の内に聞えて、不祥ある時は、さも心地好げに笑ひしとかや。

旗野に一人の妾あり。名を村といひて寵愛限無かりき。一年夏の半、驟雨後の月影冴かに照して、北向の庭なる竹藪に名残の雫、白玉のそよ吹く風に溢るゝ風情、またあるまじき観なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更るを覚えざりき。

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