TRENDIA CLASSIC
それから
夏目漱石
1 / 212
一の一
誰か慌たゞしく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下つてゐた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従つて、すうと頭から抜け出して消えて仕舞つた。さうして眼が覚めた。
枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちてゐる。代助は昨夕床の中で慥かに此花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思つたが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはづれに正しく中る血の音を確かめながら眠に就いた。
ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確に打つてゐた。彼は胸に手を当てた儘、此鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像して見た。是が命であると考へた。自分は今流れる命を掌で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌に応へる、時計の針に似た響は、自分を死に誘ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生きてゐられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかつたなら、如何に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう。けれども――代助は覚えず悚とした。彼は血潮によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つ撲されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。
夏目漱石の他の作品
TRENDIA CLASSIC
『心』広告文
夏目漱石
『心』広告文
夏目漱石 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
『心』予告
夏目漱石
『心』予告
夏目漱石 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
『三四郎』予告
夏目漱石
『三四郎』予告
夏目漱石 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
『それから』予
告
夏目漱石
『それから』予告
夏目漱石 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
猫の広告文
夏目漱石
猫の広告文
夏目漱石 ・ 約1分
TRENDIA CLASSIC
イズムの功過
夏目漱石
イズムの功過
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
一夜
夏目漱石
一夜
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
岡本一平著並画
『探訪画趣』序
夏目漱石
岡本一平著並画『探訪画趣』序
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
カーライル博物
館
夏目漱石
カーライル博物館
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
永日小品
夏目漱石
永日小品
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
学者と名誉
夏目漱石
学者と名誉
夏目漱石
TRENDIA CLASSIC
薤露行
夏目漱石
薤露行
夏目漱石