海流
本文約35,600字 ・ 読了時間 約72分
あらすじ(AIが作成しました)
冷え切った家庭で育った宏子は、かつて母・瑛子と父の仕事仲間であった富岡との間に漂っていた密やかな情熱に敏感に反応し、その空気の記憶にいまも苦しめられている。成長した宏子とその弟の順二郎、そして夫・泰造との生活に倦怠と嫌悪を抱く瑛子の姿を通して、かつて恋をせずに母となった一人の女が、晩年に直面する葛藤と成熟の苦悩を描く。同時に、学生たちの青春の感傷や彼らが抱く新しい社会的関心といった当時の時代の空気を背景に写し出す。
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一
やっと客間のドアのあく音がして、瑛子がこっちの部屋へ出て来た。上気した頬の色で、テーブルのところへ突立ったままでいた順二郎と宏子のわきを無言で通り、黙ったまま上座のきまりの席に座った。
そういう母に宏子も順二郎も何も云えなかった。それぞれ坐り、ちぐはぐな夕飯がはじまった。瑛子は箸をとると、型どおりお椀のふたをとったり、野菜を口へ運んだりした。けれどもその様子はただそうやってたべているというだけで、全く心は娘や息子のところに来ていないことが感じられる。宏子は胸がいっぱいで味も分らなかった。
田沢は帰らないで、別な膳が一つだけ彼のために客間の方へ運ばれている。そんなにしてまで、一家の空気の中に彼の存在が主張される不自然な苦痛な緊張が、妙にごたごたした前後のいきさつの裡にあるのであった。
一言も口を利く者もなくてこっちの食事が、落付かない雰囲気の中でどうやら終った。すると、瑛子はすぐ立ちかかって、
「お客間へお茶がいるよ」
と女中に云ったなり、息子と娘に言葉をかけず着物の衿元をつくろいながら、化粧を直すために洗面所の方へ行ってしまった。
白堊の天井から頭の上に煌々と百燭光が輝いている。一輪插し、銀の楊枝箱、鋏、装飾用の寒暖計などがのっている飾盆を挾んで、再び順二郎と宏子とはテーブルのところにのこされた。隈ない光を浴びている順二郎のふっくりとした柔和な顔は幾分蒼ざめて、鼻の下に和毛の微かな陰翳はごみっぽいような疲れたような感じに見える。彼はさっきからひとことも云わず、ふだんより余計瞬きをするような表情で姉を見ているのであった。しばらくして、
「順ちゃん、これからどうする?」
と、宏子がやっとのことで出したようなあたりまえの声の調子できいた。
「僕?」
嵩の高い膝をすこし揺るようにして、順二郎はその独特なふくらみで顔に表情を与えている上瞼の下から素直に姉をみた。
「僕はドイツ語の文典をやる」
「――順ちゃん。一円ばかりもってる?」
「うん、あると思う」
「かしてね。あとで母様に云って返してもらって。――いい?」
「ああ。今すぐ?」
「うん」
弟から金をうけとると、宏子は玄関へ出て靴をはいた。