築地河岸
本文約7,800字 ・ 読了時間 約16分
あらすじ(AIが作成しました)
夫・啓三が不自由な生活を送る道子は、医療機械雑誌の編集・広告取りの仕事を一人で担いながら、日々の生活を守っている。世間では出征を控えた男たちへの千人針が流行し、閉塞感漂う社会の風景を眼にする中、道子は義兄・信一から老いた両親の世話を押し付けられそうになる。夫を支え、自らの生き方も模索しようとする道子の矜持と、周囲の身勝手な打算が交錯する中で、彼女が自身の心情と向き合う日々を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
門鑑を立っている白服にかえして前の往来へ出ると、ひどいぬかるみへ乱暴に煉瓦の破片をぶちこんで埋めたまま乾きあがっている埃っぽい地面とギラギラした白雲との間から、蒸れかえった暑気が道子の小柄な体をおし包んだ。
永年その一画には高い高い煉瓦塀が連って空の一方をふさいでいた、そこが、昨今急に模様変えになって、高さに於ては元よりも高いコンクリート塀が旧敷地の奥の方へ引込んで新しく建てめぐらされたので、周囲の風景には印象深い都会の貧と荒廃とが露出しているのであった。
刑務所の塀に沿うた町筋などに軒を並べて来た連中の暮しのほどは、およそ推察されるのであるから、急に大きな塀がとりこわされて無くなってしまった後には、りのこされたように歪んだ長屋や小工場などが生活の内部を炎暑にさらして現れている。雑草が茂って、大きい水たまりがところどころにあり、広いごみ捨場のような眺望の空地は、新製式な工場めいたコンクリート塀の下からはじまって、遠く電車通りのところまで一本の樹木の蔭もなく延びひろがっている。
道子が同じ路を二時間ばかり前に来た時には、その荒れた広っぱのひとところで数十人の白服が列をつくって並んだり、分列したり、動いていた。
道子は小さくきちんとたたんだハンカチで、ベレーをかぶった額や小鼻の汗をふきながら、むらのない歩調で歩いた。こまかく光る金網のむこうで道子を見て、どうしたい、と笑った啓三の顔や、あつそうに片手で単衣の袖を肩の上へたくしあげた啓三の身ごなしが道子の眼へというよりはうち向っている心にまざまざとのこされた。良人に面会した後は単純にうれしかったなどと云い切れない苦しい感情が、いつも道子の気分にのこされるのであった。益々底深い鬱然とした気分、その一方では、まあよかったとぼんやり自分から自分を云いなだめている気持、それが錯綜するのである。きょうは、何かそういう気持のからみ合いがきつく感じられた。