鏡の中の月
本文約7,200字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
夏期講習の裁縫教室で働く瀧子は、独身の女教師として周囲から結婚を急かされていた。ある日、町の有力者である山口が瀧子の自宅を突然訪れ、強引に結婚を申し込む。瀧子は親友から山口の過去の冷酷な夫婦関係を聞き、その人間性に嫌悪感を抱く。時局が騒がしくなり、出征兵士を送るため村が慌ただしくなる中で、山口の執拗な求婚に追い詰められた瀧子は、自分を利用しようとする男の狡猾さを見抜き、毅然とした態度でその縁談を断り続ける。
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二十畳あまりの教室に、並べられた裁縫板に向って女生徒たちが一心に針を運んでいた。
あけ放された窓々から真夏の蝉の声が精力的に溺らすように流れ入った。校庭をとりまく大きい樫の樹の梢は二三日前植木屋の手ですかされたばかりなので、俄かにカランと八月空が広く現れ、一層明るくまた物珍しい淋しさを瀧子の心に感じさせる。
生徒たちに向って自分もやはり裁縫板をひかえて坐っている瀧子のうしろに床の間があった。濃い鮮かな牡丹色の小町草の花がありふれた白い瀬戸の水盤に活けてある。これも生徒の製作品である。夏の暑さと教室内の静かな活動とはお互いに作用しあって、ふと気がついてみると、いつか頭の中は休みない蝉の声ばかりになっているような気のする時もある。
瀧子は永年の習練で敏捷に指先を運びながら、こうやって嫁入前の娘たちばかりが集って夏期講習をうけているのだけれど、そんなことを思ってもいなかった自分が、もしかしたらこの間の誰よりもさし迫って結婚の前におかれているのかもしれないと思うと妙な心持がした。
「縁を切った昔の女が、あなたを取って食うとでも言うんですか」
話にもならんという風で、ハッハッハと闊達らしく笑いすてた山口仁一の黒い髭の動きが、まざまざと瀧子の眼に浮んだ。大きく腕をうごかして、瀧子が出した団扇で煽いだとき、上衣をぬいだワイシャツの脇から背が風で白くふくらんだ。率直と闊達、それを山口は補習学校でも評判のいい女教師である瀧子に対して自分のとりえとして示すのであった。
「突然あがったりして、無礼な男だとお思いになりませんかとも思ったんですが、僕としては、溝口ゆき子さんがあなたにお話し下さるにしても、どうもそれを待ってばっかりいずに、直接お会いして気持を分って頂く方がいいと思ったもんですから――つまりマア、言ってみれば、僕は年からいっても分のわるい求婚者といった立場ですからな」