風知草
本文約43,700字 ・ 読了時間 約88分
あらすじ(AIが作成しました)
網走刑務所での無期懲役を終え、十二年ぶりに解放された重吉は、妻のひろ子と共に友人である研究者の研究所を訪れる。実験室の片隅で焼き芋を食べながら静かな時を過ごす二人は、重吉の健康診断を待ちつつ、かつての獄中生活の過酷さや、現在の生活の変化に思いを馳せる。過去の拘束の記憶が影を落とすなかで、二人は新たな時代の足音と、自らが歩み始めた日常の尊さを噛みしめながら、ささやかな再会の一日を体験する。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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一
大きな実験用テーブルの上には、大小無数の試験管、ガラス棒のつっこまれたままのビーカア。フラスコ。大さの順に並んだふたつきのガラス容器などがのせられている。何という名か、そして何に使われるものかわからないガラスのくねった長いパイプが上の棚から下っている。透明なかげを投げあっているガラスどもの上に、十月下旬の午後の光線がさしていた。武蔵野の雑木林のなかに建てられている研究所は自然の深い静寂にかこまれていて、実験室の中には微かにガスの燃える音がしていた。一隅の凹んだところで、何かの薬物が煮られているのであった。
ドアに近い実験用テーブルの端に、小さい電気コンロがのっていた。その上に、金網のきれぱしが置かれ、薄く切ったさつまいもが載せられている。まわりに、茶のみ茶碗、鮭カンの半分以上からになったの、手製のパンなどが、ひろげられている。
静かな、すみとおった空気の中に、いもの焼ける匂いが微かに漂いはじめた。
「そろそろやけて来たらしいね」
「……もうすこうしね」
「そっちの、こげやしないか」
「そうかしら」
実験用テーブルの端へもたれのある布張椅子をひきよせて、いものやけるのをのぞいているのは、重吉であった。親しい友達がもって来てくれた柄の大きすぎるホームスパンの古服を着て、ひろ子が彼の故郷からリュックに入れて背負って来た靴をはいて、いものやけるのを見ている。無期懲役で網走にやられていた重吉は、十二年ぶりで、十月十日に解放された。いが栗に刈られた重吉の髪は、まだ殆どのびていない。
ひろ子は、元禄袖の羽織に、茶紬のもんぺをはいて、実験用の丸椅子にかけ、コンロの世話をやいていた。
「さあ、もうこれはよくってよ」
「――あまいねえ。ひろ子もたべて御覧」
「網走においもはあったこと?」
「あっちは、じゃがいもだ。農園刑務所だからね、囚人たちでつくっているんだ」
「あなたなんか和裁工でも、じゃがいもぐらいは、たっぷりあがれたの?」
「東京よりはよかったさ。――巣鴨のおしまい頃はひどかったなあ……これっぽっちの飯なんだから。二くち三くちで、もう終りさ」