彼女こゝに眠る
本文約4,200字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
恋人である片山の活動に身を捧げ、社会運動や刺繍工場での労働に従事していた女性が、片山の検挙と離別を経て次第に心身を追い詰められていく。ある日、極度の疲労と肺結核により倒れた彼女は、金銭や証明書という冷徹な社会的障壁に阻まれながらも、駆けつけた同志たちに見守られ、ついに呼吸を引き取る。本作は、過酷な現実の中で理想を追求し、静かに眠りについた一人の女性の最期を描く。
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その夜の月は、紺碧の空の幕からくり拔いたやうに鮮やかだつた。
夜露に濡れた草が、地上に盛り溢れさうな勢ひで、野を埋めてゐた。
『お歸んなさい、歸つて下さい。』
『いえ。私はもう歸らないつもりです。』
『どこまでひとを困らせようといふんです。あなただつて子供ぢやああるまいし。』
草の中に半身を沒して、二人はいひ爭つてゐた。男は激しく何かいひながら、搖すぶるやうに女の肩を幾度も小突いた。
『いえ、私はあなたが何と仰有つても、あなたに隨いてゆくのです。それより他に私の行くみちはないんです。』
女は嶮しい男の眼を眼鏡の中に見つめながらいふのだつた。
『馬鹿なツ、隨いてゆくつたつて、何處へ行くといふんです。』
『何處までゝも――けれど、それがもしあなたの御迷惑になるとでも仰有るなら、私は此處でお訣れします。でも、家へはもう歸らない覺悟です。』
女は少し冷やかにいひ放つと、蒼ざめて俯向いた。二人の間に、暫く沈默が續いた。
默つて女を凝視してゐた男は、前とは全然異つた柔しさでいつた。
『ね、解つて下さい。僕は塒さへ持つてゐない、浮浪人に等しい男なんですよ。』
『知つてます、そんなこと。』
『それにです、明日どうなるかも解らない體なんです。』
『みんな、よく私は解つてゐるんです。』
『今夜あなたのお父さんが、僕を罵倒して追ひ出したのも、親として無理なことではありません。全く僕といふ男は、あなたを何ひとつ幸福にしてあげる事なんかできない人間なんですから……』
『ぢやあ、あなたは私を輕蔑してらつしやるんだ。』
『なにいつてるんですツ』
『だつてあなたは、私がやつぱし、父のいふ意味の幸福な結婚を求め、さうしてまた、それに滿足して生きてられる女だとしか思つてない……』
『さうぢやない、さうぢやないが……』
『いえ、あなたは、私といふ女が、あなたの足手纒ひになる厄介な女だと思つて、その癖に今まで……』
『昂奮しないでお聽きなさいツ。ではこれから自分達の行く道が、どんなに嶮しい、文字通りの荊棘の道だつてことが、生々しい現實として、お孃さん、ほんとにあなたにわかつてゐるんですか……』