モスクワの辻馬車
本文約8,000字 ・ 読了時間 約17分
あらすじ(AIが作成しました)
日本への帰国を翌日に控えたモスクワ在住の日本人女性が、夜の街を辻馬車で移動する様子を描く。彼女は多くの荷物を抱え、知人を訪ねたり書類を整理したりと、滞在の仕上げに追われていた。そんな中、馬車の御者から提示額以上の運賃を執拗に要求される。当初の契約を守るべきだと主張する女性と、物価高を理由に引き下がらない御者の間で口論となり、周囲の市民や警察を巻き込む騒動へと発展していく様子を綴る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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強い勢いで扉が内側からあけられた。ともしびがサッと広く歩道へさした。が、そこから出て来たのは案外小さい一人の女だった。
歩道に沿って二台辻馬車が停っている。後の一台では御者が居眠りしていた。前の御者台に黒い外套を着て坐っていた御者が扉の音で振向いた。馬具の金具が夜の中にひかった。
小さい女はひどく急いでいる風で立ち止まるのも惜しそうに、歩道の上から御者に叫んだ。
――ひま?
――何処へ行きますかね?
――サドゥヴァヤ! ストラスナーヤの角とトゥウェルスカヤ六十八番とへよって、二ルーブリ!
――よろしい、行きましょう。
――二ルーブリ! いい? それで。
御者はほとんど面倒くさそうに髭のある口の中で「よろしい、よろしいとつぶやいた。外国女だ。何度繰返したってまともなロシア語の音はどうせ出やしないんじゃないか。そう云っているような調子である。御者特有の横目で日本女が先ず片手にさげていた一つの新聞包みを蹴込みへのせ、それから自身車へのるのを見守り、弾機が平衡を得たところで、唇を鳴らし手綱をゆるめた。
冬凍った車道ですべらないようにモスクワの馬に、三つ歯どめの出た蹄鉄をつけている。新ソヴェトの滑らかなアスファルト道の上で、そういう蹄は高く朗かに鳴った。十一月中旬の、まだ合外套も歩いてる午後七時の往来に小さい籠を持ったリンゴ売が出ている。芸術座小舞台へ入る門の前で、女が――プログラム! プログラム、十カペイキ!「我等の青春」のプログラム、十カペイキ!
気ぜわしい、金属的な、何だかひもじいような声だ。むき出しな頭で片手にプログラムの束を抱えそうやって叫んでいる女もその他の通行人も馬車の上から見るとみんな宵のくちの濃い陰翳と不揃いなともしびの中にあって、一つ一つの目鼻だちは見分けられない。