何年ぶりかで珍しく上野の図書館へ行った。むかし袴をはいて通った時分からみると婦人閲覧室もずっと広く居心地よいところになったし、いろいろ変っているけれども、本を借り出すところが一段高くなってそこに係の人がいる役所めいた様子は、やっぱりもとのままのこっている。
係のひとの顔のなかには、遠い記憶のなかで見覚えている面ざしもあって、頼んだ本の来る間を、何とはなし立ちかえっての物珍しさというような心持であたりを眺めていた。若い婦人の本借り出しもなかなか多い。同じようにして待つ間を、そこの右手にある新刊書棚など眺めている。ふと見るとその棚に、「新女大学」という一冊の本がある。著者は菊池寛。経済年鑑のようなものを借りに来ている和服の若い女のひとも、洋装で、ドイツ語の医学書を借りているひとも、そのほか何人かの若い女のひとたちが、ひとしくその棚に目をさらすのだが、どの女のひとも、少女という年頃の娘さんでさえ、この「新女大学」と金文字で書かれた一冊の本の表題を眺める視線に、それを「しん、じょ」と読み下そうとして、おやととまどうような表情はなくて、いくつもの若々しい女の目がちらりと、「しんおんなだいがく」と読み下して、格別、自分たちがそういう徳川時代の本の名にそんなに馴らされていることに、新しいおどろきの心を動かされている様子もない。
私は自分たち女の生活の中にある伝統の力の強さを感じ直させられるような感じがした。そのようにして、大お祖母さんの時代からすらりと「おんなだいがく」と読みならわしてきている本の内容を、おそらく今日こまかに知っているひともないであろう。だが「女大学」の名は決して死んでいまい。何か生きて日本の女の生活のなかに今日も一縷のつながりをもってつたわっている。そのことは感じられるのではないだろうか。