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TORENDIA

時計

本文約3,800字 ・ 読了時間 約8分

あらすじ(AIが作成しました)

父から贈られた銀の懐中時計を皮切りに、著者が人生の節目で手にし、そして失ってきた様々な時計の数々を綴る随筆。幼い頃の紛失や、結婚生活での故障、ロシアでの盗難、そして信頼していた人との離別によって愛用していた時計が手元から消え去る経験を通じ、時計という存在と自身の生活や時代背景との関わり、そして愛着ある品々が失われることへの深い悲しみと憎悪の感情を、回想を交えて静かに描写する。

宮本百合子

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🎧 時計 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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私が女学校を出た年の秋ごろであったと思う。父が私に一つ時計を買ってくれた。生れてはじめての時計であった。ウォルサムの銀の片側でその時分腕時計というのはなかったから円くて平たい小型の懐中時計である。私は、それに黒いリボンをつけ、大変大切に愛してもっていた。袴をはいたときは、袴の紐にその黒いリボンをからみつけて。

或る日、急に八重洲町の事務所にいる父に会わなければならない用が出来た。どういう道順であったか、上野の山下へ出た。そこで自働電話を父へかけた。何時までならいると父が云ったので、私は、黒リボンを帯留めにくくりつけるひまのなかった例の時計を電話機の前の棚のところへ出してのせ、それを眺めながら、だって父様すこし無理よ、十五分のばしてよ。などかけあった。

自働電話を出て、少し行った時、私は俄に額際から汗の滲み出すような気持になり、殆ど駈けて、今出て来た自働電話の箱へ戻り、そのままとびこんだ。人は入っていなかった。だが、もうそこの棚には、私の大切な銀時計がない。私は暫くその中に立ったまま首をかしげ、歩き出すことが出来なかった。どんな人がもって行ったか、その人相を想像するよすがもない。私は、父の顔を見た途端、困っちゃったと云った、時計をなくしちゃった、と云った。泣けないけれども、そういう時は、頬っぺたがとけたような心持であった。

これの代りに、程経ってから両蓋のやはりウォルサムの銀側が出来た。父がこれも買ってくれたのであった。私はそれに再び黒いリボンを結びつけた。北海道で、荷馬車のうしろへ口繩をいわいつけた馬にのってアイヌ村を巡った時、私の帯の間にはこの時計が入っていた。

ニューヨークの寄宿舎では豌豆がちの献立であったから腹がすいて困った。その時、デスクの上で何時かしらと眺めるのも、その時計であった。

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