私の科学知識
本文約1,200字 ・ 読了時間 約3分
あらすじ(AIが作成しました)
女学校時代の化学教室や物理の授業風景を回想し、自身の自然科学に対する知識の乏しさと、成長期の多感な時期における学課との向き合い方を綴る。数学が若く不安な精神を掴みとめる魅力に欠けていた体験や、若き日に読書を通じて受けた科学的な知的好奇心の刺激を振り返り、生活と結びついた学問のあり方について論じる。
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私の科学知識というような話題について何か語ろうとすると、真先に、貧弱という字が心に大写しになって浮んで来るのは、私ばかりのことだろうか。
読書力というものについて他の場合にもよく思うことだけれども、私たちの読書力は極めてむらで、理解する力に甚しい差がある。私の実際では、その最も蒙昧な箇処に自然科学に関する部分が横わっているのである。科学といっても人文社会に関する科学の業績は、自然科学よりずっと日常にとりいれられ、わかるものとなっている。
今日私を悲しく思わせる、このような自然科学の蒙昧性を考えると、女学校時代の化学教室の雰囲気が思い出に甦って来る。化学教室には厚板の実験台があり、ガス管と水道とが備わっていて、紫紺や海老茶の袴をつけ、袂の着物を着た女学生たちは、その実験台に向って席に着いた。左手に首をねじって、ボールドと先生とを見るわけであったが、化学の一時間は何と余力の欠けた、溌溂としたところのない時間であったろう。試験管を挾んで火にあたためて、薬の一二滴を落してふって色の変ったところを眺めたり、アルカリ反応、酸性反応と細く小さい試験紙をいじったこと、それらが淡い光景となって想い出される。今は女学校の化学もきっと大変ちがった教えかたをされているだろうと思う。もっと生活に結びつき、教えられているだろう。
物理の段々教室は陰気で埃っぽかったが、化学よりは面白く思われた。