死刑の前
本文約11,100字 ・ 読了時間 約23分
あらすじ(AIが作成しました)
死刑を控えて東京監獄に拘禁された著者が、自身の死生観を綴る。死刑を恐ろしいものと捉える世間の認識に対し、人間が抱く恐怖は死そのものではなく迷信や執着に起因すると説く。歴史上の刑死の例を挙げつつ、自身にとっての死刑を自然な成り行きとして受け入れ、運命や道徳についての思索を展開していく。
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第一章 死生
第二章 運命
第三章 道徳―罪悪
第四章 半生の回顧
第五章 獄中の回顧
第一章 死生
一
わたくしは、死刑に処せらるべく、いま東京監獄の一室に拘禁されている。
ああ、死刑! 世にある人びとにとっては、これほどいまわしく、おそろしい言葉はあるまい。いくら新聞では見、ものの本では読んでいても、まさかに自分が、このいまわしい言葉と、眼前直接の交渉を生じようと予想した者は、一個もあるまい。しかも、わたくしは、ほんとうにこの死刑に処せられんとしているのである。
平生わたくしを愛してくれた人びと、わたくしに親しくしてくれた人びとは、かくあるべしと聞いたときに、どんなにその真疑をうたがい、まどったであろう。そして、その真実なるをたしかめえたときに、どんなに情けなく、あさましく、かなしく、恥ずかしくも感じたことであろう。なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃に胸をつらぬかれたであろう。
されど、今のわたくし自身にとっては、死刑はなんでもないのである。
わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。その公判すら傍聴を禁止された今日にあっては、もとより、十分にこれをいうの自由はもたぬ。百年ののち、たれかあるいはわたくしに代わっていうかも知れぬ。いずれにしても、死刑そのものはなんでもない。
これは、放言でもなく、壮語でもなく、かざりのない真情である。ほんとうによくわたくしを解し、わたくしを知っていた人ならば、またこの真情を察してくれるにちがいない。堺利彦は、「非常のこととは感じないで、なんだか自然の成り行きのように思われる」といってきた。小泉三申は、「幸徳もあれでよいのだと話している」といってきた。どんなに絶望しているだろうと思った老いた母さえ、すぐに「かかる成り行きについては、かねて覚悟がないでもないからおどろかない。わたくしのことは心配するな」といってきた。
死刑! わたくしには、まことに自然の成り行きである。これでよいのである。かねての覚悟あるべきはずである。わたくしにとっては、世にある人びとの思うがごとく、いまわしいものでも、おそろしいものでも、なんでもない。