第一
愉快いな、愉快いな、お天気が悪くつて外へ出て遊べなくつても可や、笠を着て蓑を着て、雨の降るなかをびしよ/″\濡れながら、橋の上を渡つて行くのは猪だ。
菅笠を目深に冠つて※[#「さんずい+散」、U+6F75、39-4]に濡れまいと思つて向風に俯向いてるから顔も見えない、着て居る蓑の裾が引摺つて長いから脚も見えないで歩行いて行く、背の高さは五尺ばかりあらうかな、猪子しては大なものよ、大方猪ン中の王様が彼様三角形の冠を被て、市へ出て来て、而して、私の母様の橋の上を通るのであらう。
トかう思つて見て居ると愉快い、愉快い、愉快い。
寒い日の朝、雨の降つてる時、私の小さな時分、何日でしたつけ、窓から顔を出して見て居ました。
「母様、愉快いものが歩行いて行くよ。」
爾時母様は私の手袋を拵えて居て下すつて、
「さうかい、何が通りました。」
「あのウ猪。」
「さう。」といつて笑つて居らしやる。
「ありや猪だねえ、猪の王様だねえ。
母様。だつて、大いんだもの、そして三角形の冠を被て居ました。さうだけれども、王様だけれども、雨が降るからねえ、びしよぬれになつて、可哀想だつたよ。」
母様は顔をあげて、此方をお向きで、
「吹込みますから、お前も此方へおいで、そんなにして居ると衣服が濡れますよ。」
「戸を閉めやう、母様、ね、こゝん処の。」
「いゝえ、さうしてあけて置かないと、お客様が通つても橋銭を置いて行つてくれません。づるい[#「づるい」はママ]からね、引籠つて誰も見て居ないと、そゝくさ通抜けてしまひますもの。」
私は其時分は何にも知らないで居たけれども、母様と二人ぐらしは、この橋銭で立つて行つたので、一人前幾于宛取つて渡しました。
橋のあつたのは、市を少し離れた処で、堤防に松の木が並むで植はつて居て、橋の袂に榎の樹が一本、時雨榎とかいふのであつた。