TRENDIA CLASSIC

中里介山の『大菩薩峠』

三田村鳶魚

1 / 18

中里介山さんの『大菩薩峠』(普及本の第一巻)を読んでみる。これは最初のところは、奥多摩の地理や生活ぶりが書いてあるので、そこに生れた作者にとっては、何の造作もない、まことに危なげのないところでゆける。しかし例の通り言葉遣いや何かの上には、おかしいところがある。それから武家の生活ということになると、やはりどうもおかしいところが出てくる。これは大衆文芸として、早い方のもののようでありますが、怪しい方でも同じく早いということになるんだろうと思う。

一二頁のところで、宇津木文之丞の妹だといって、この小説の主人公である机竜之助を訪ねて来た女がある。その言葉に「竜之助様にお目通りを願ひたう存じまして」とあるが、この女は実は文之丞の女房で、百姓の娘らしい。文之丞は千人同心ということになっている。竜之助の方はどういう身柄であったか、書いてないからわからない。道場を持っているし、若先生ともいわれているけれども、あの辺のところに、郷士があったということも聞いていない。竜之助の身分はわかりませんが、しばらく千人同心程度としても、「お目通り」は少し相場が高い。「お目にかゝりたい」くらいでよかろう。書生さんを先生といえば、かえってばかにしたように聞える。わずかなことのようだけれども、これも各人の生活ぶりを知らないから起ることだと思う。

それからそこで竜之助のところにいる剣術の弟子達のいうことを聞くと、「賛成々々」とか、「宇津木の細君か」とかいう漢語が出る。これはおよそ文久頃と押えていい話だと思うが、こんなわけもない漢語のようでも、まだザラに遣われている時ではない。

「宇津木文之丞様の奥様」ということもここにあるが、千人同心などというものは、三十俵か五十俵しか取っていないのですから、そういう者の妻を、どこからでも「奥様」なんていうはずはない。奥様のことは、実に度々繰り返して言いましたが、大衆文芸というと、申し合せたように、こういう間違いを繰り返しているんだから仕方がない。ここでもまた繰り返しておきます。

三田村鳶魚の他の作品