夢は呼び交す
本文約103,500字 ・ 読了時間 約207分
あらすじ(AIが作成しました)
戦災を経て鎌倉へ移り住んだ鶴見は、耐乏生活の中で梅の蕾に春の兆しを見出す。詩人である彼は、過去の孤独な文芸活動や言葉の修練を振り返り、輪廻や永劫回帰といった思想に基づいた独自の詩境を構築していく。本書は、焼けただれた焦土から更生した自己の精神の在り方や、詩生活と日常生活の平衡についてを綴る随筆である。
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書冊の灰
二月も末のことである。春が近づいたとはいいながらまだ寒いには寒い。老年になった鶴見には寒さは何よりも体にこたえる。湘南の地と呼ばれているものの、静岡で戦災に遭って、辛い思いをして、去年の秋やっとこの鎌倉へ移って来たばかりか、静岡地方と比べれば気温の差の著るしい最初の冬をいきなり越すことが危ぶまれて、それを苦労にして、耐乏生活を続けながら、どうやら今日まで故障もなく暮らして来たのである。珍らしく風邪一つひかない。好いあんばいに、おれも丈夫になったといって、鶴見はひとりで喜んでいる。
「梅がぽつぽつ咲き出して来たね。」
鶴見は縁側をゆっくり歩いて来て、部屋に這入りしなに、老刀自に向って、だしぬけにこういった。静かに振舞っているかと見れば性急に何かするというようなのが、鶴見の癖である。
「梅がね。それ何というかな。花弁を円く畳み込んでいる、あの蕾の表の皮。花包とでもいうのかな。紫がかった褐色の奴さ。あれが破れて、なかの乳白な粒々が霰のように枝一ぱいに散らかって、その中で五、六輪咲き出したよ。魁をしたが何かまだおずおずしているというような風情だな。それに今朝まで雨が降っていたろう。しっとりと濡れていて、今が一番見どころがあるね。殊に梅は咲き揃うと面白くなくなるよ。」
鶴見はいっぱしの手柄でもした様子で、言葉を多くして、はずみをつけて、これだけの事を語り続けた。
「そうですか。だんだん暖くなって来ます。もう少しの辛抱でございますね。」
刀自はあっさりとそういったきりで、縫針の手を休めない。不足がちな足袋をせっせと綴くっているのである。傍に置いてある電熱器もとかく電力が不調で、今も滅えたようになっている。木炭は殆ど配給がなく、町に出たときコオライトというものを買って来て、臭い煙の出るのを厭いながら、それを焚いていたが、それさえ供給が絶えてから、この電熱器を備え付けたのである。
しかしこの日はどうしたことか、鶴見は妙にはしゃいでいる。いつもの通り机の前に据わって、刀自の為事をする手を心地よく見つづけながら、また話しだした。