TRENDIA CLASSIC

日記

宮本百合子

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一月一日 火 晴  朝寒く、午後暖か。林町の人々は二日に常盤館に出かけるので今日ぜひ会いたかった。けれども風邪がなおり切らないので、Aに電話をかけて貰って中止する。一日家居、「都会の憂鬱」をよんでしまう。

つづいて、「我が一九二二年」も。自分が忘れて居る、或は知らない日本、支那――東洋の芸術的雰囲気の美を感じらせられる。野上彌生氏からは忍耐や根気づよさをおそわり、佐藤春夫からは本当の芸術家の心はどうあるかと云うことを知らされ、自分の父に似すぎた性格の重しとなる。鷹野つぎ氏新聞で彌生氏の芸術は、classical すぎ、何の交感も自分に与えず。と批評して居る。一面の真理はある。自分が彼女との交誼の間に自ら警して居ることもその点だ。ヤエ子さんは段々、古典的形式美――精神がきっぱり簡明な手法に納められたもの――を愛す傾向になって居る。光太郎氏訳『ヴェルハーラン詩集』大正十年の訳で、やや生硬のうらみあり、然し美しい。さいと裏で羽根をつき乍ら、日本のうららかな正月は薄水色。そこに、葉のない梅やけやきの美しい枝が、金糸でぬいとったような風景。(西日に照って)と感じる。又卓子の上にあるアスパラガスを横から見ると、優しい繊細な緑のつみ重りの間に、小規範の南方的圧力があり面白いと思った。

(この日記は、紙がよくて書きよいが、小さくて困る。又大きすぎたら、こんなにこまごまと書く丹念さを失うかもしれないが。)

『文芸春秋』、なかなか面白し。茶目ども! 佐佐木茂索のおしゃべり(短、小)は器用なものだ。少し wit がはばをきかせすぎるけれども。

(彌生さんのことを考える。私は彼女に対して、種々の批評をもって居るが、彼女が寛大に私を後進と扱ってくれるところ、彼女が私よりずっとよいところを持つと、思い、恥しいことがある。)

後進は、自己の道を見出す為に反抗的なのか。

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