惑ひ
本文約25,600字 ・ 読了時間 約52分
あらすじ(AIが作成しました)
金策に追われる家庭環境の中で、逸子は義理や窮乏に苦しむ日常に閉塞感を抱く。龍一から勉学を続けるよう助言を受けるたび、逸子は家族との関係に葛藤し、自らの道を見出すために家を出る決意を固める。周囲からの非難や将来への不安を乗り越え、自己の解放を模索する逸子だが、平穏な日常が訪れると、その強固だったはずの決心は次第に揺らぎ、再び日々の家事に追われる生活の中へと引き戻されていく様子を描く。
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一
『本当にどうかして貰はないぢや困るよ、明日は是非神田の方に出掛けなきやならないんだからね』
母親はさう云つて谷の生返事に、頻りに念を押してゐた。と云つて、彼女は決して、谷をあてにして念を押してゐるのではないと云ふ事は、次の間で聞いてゐる逸子にはよく解つてゐた。そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思ふと何んとも云へない嫌やな気持に圧し伏せられるのだつた。けれど、嫌やだと云つて素知らぬ顔に済ませる訳けにはどうしてもゆかなかつた。どうにか当てをさがさなければならないのであつた。けれど、逸子にしても、此の毎月々々の極まつた入用だけの金にもこと欠いて苦しみ通してゐる際に、たとへ僅か五円ばかりの金と云つても、屹度出来ると云ふあては、何時も馳け込む龍一の処をおいて他にはまるでなかつた。そして本当の処は、始終の事なので龍一の処にも、さう/\は行きかねるのだつたけれど、是非にと云ふ事になれば、どうと云つて、他に仕方はないので、矢張り其処にでも行くより他はなかつた。
『何にも明日に限つた事ぢやないんだらう? 神田なら――』
谷は何時ものやうに気のりのしない調子で相手になつてゐた。
『そんな呑気な事云つちや困りますよ。もう此の間から行かなきやならない筈のが、のび/\になつてるんぢやないか。明日はどうしても行く筈にしてあるんですよ。』
『行く筈にしてゐたつて、お母さんだけ其のつもりでも、俺の方ぢやそんな筈は知らないんだからなあ。金がないと行けないのかい。』
『あたり前ですよ、そんな事。』
『俺だつて別にあてがある訳ぢやないんだから、屹度出来るかどうか分らないよ。』
『それぢや困るぢやないか。偶にたのむんだもの、何んとかしてくれたつてよささうなもんだね、先刻からあんなに頼んでるぢやないか?』
『出来ればどうかするよ。だけど何もさう神田に行くのに大騒ぎする事はないぢやないか、大した用があるんぢやなし、遊びに行くのに――』