朝の薄ら陽があかあかと箱根街道を照らしていた。二重廻しを着た六尺豊かな親父の私は、今年六つになる三尺にも足りぬ息子一郎の手を引いて、霜柱の立ったその街道に出て行った。
昭和十八年十二月三十日、私は歳末の一両日の休みを利用して、その前日から箱根湯本のある温泉宿に泊っていた。その前日は一郎を連れ、湯本から登山電車に乗って強羅まで上り、強羅からケーブル・カーに乗って早雲山、早雲山からバスで大涌谷を通って湖尻へ、湖尻の一膳飯屋ですいとんを二杯宛食べ、蜜柑を仕入れて、モーターボートに乗ったところ付近の国民学校の一年生たちが汚ない顔を元気よく輝かせ、国民服の少年のような先生の説明に興奮している様子が可憐であったから、これに蜜柑をあらかた遣ってしまい、元箱根に着き、そこで昼定食を食ってから、箱根権現を見物し、バスで湯本に帰って来た。翌日の三十日は朝から如何しようかとプランを樹てるまでもなく、山に登る事に決めていた。
と言うのは、その前日、登山電車の窓から一郎が初めて自分の肉眼で眺める、山と言うものの壮容に眼を輝かし、「お父さん、あのお山に登ろうねッ」と絶えず繰返していたからだ。現在、電車で山に登りつつあるのだ、と教えても、ケーブル・カーに乗った折ですら、山に登っているのだとは諒解し切れぬ幼い頭では、きらり眼前にはがね色に冴えかえった蘆湖を眺めても、「やあ、海、海」と手を叩き、いかに親父が海と湖と異なるかを説いても、真物の海さえ知らぬ一郎は心から納得顔にならなかった。それでその翌日は自分の足で山を登らせてやろうと前日から計画し、初めはその辺の山にちょっと、登って、直ぐ宿に帰る気であったが、ぶらりと旧街道に立ち出てみると、今度は、私自身が、その東海道五十三次の中、難路を伝えられた箱根八里の山路を幾らかでも歩いて見たくなった。