六六館に開かるる婦人慈善会に臨まんとして、在原伯の夫人貞子の方は、麻布市兵衛町の館を二頭立の馬車にて乗出だせり。
いまだ額に波は寄らねども、束髪に挿頭せる花もあらなくに、青葉も過て年齢四十に近かるべし。小紋縮緬の襲着に白襟の衣紋正しく、膝の辺に手を置きて、少しく反身の態なり。
対の扮装の袖を連ねて侍女二人陪乗し、馭者台には煙突帽を戴きたる蓄髯の漢あり、晏子の馭者の揚々たるにて主公の威権想うべし。浅葱裏を端折りたる馬丁二人附随い、往来狭しと鞭を挙げぬ。
かくて狸穴の辺なる狭隘路に行懸れば、馬車の前途に当って往来の中央に、大の字に寝たる屑屋あり。担える籠は覆りて、紙屑、襤褸切、硝子の砕片など所狭く散乱して、脛は地を蹴り、手は空を掴みて、呻吟せり。
奮み行く馬の危く鰭爪に懸けんとしたりしを、馭者は辛うじて手綱を控え、冷汗掻きたる腹立紛れに、鞭を揮いて叱咤せり。
「こら、そこを退かんか馬鹿な奴だ。」
夫人は端然として傍目も振らず、侍女二人は顔見合せ、吐息と共に推出す一言、「おお危い。」
屑屋は眼を閉じ、歯を切り、音するばかり手足を悶えて、苦痛に堪えざる風情なりき。
避けて通らん術も無く、引返すべき次第にあらねば、退けよ、退れと声を懸くれど、聞着けざるか道を譲らず、馬丁は焦立ちてひらりと寄せ、屑屋の襟首むずと攫めば、虫の呼吸にて泣叫ぶを、溝際に突放して、それというまま砂烟を揚げぬ。
この時酒屋の檐下より婀娜たる婦人立出でたり。薄色縮緬の頭巾目深に、唐草模様の肩掛を被て、三枚襲の衣服の裾、寛闊に蹴開きながら、衝と屑屋の身近に来り、冷然として、既に見えざる車を目送しつつ、物凄き笑を漏らせり。屑屋は呻吟の声を絶たず。婦人はその顔を瞰下して、「こう、太の字太の字。」
「おい。」と眼を開けば、
「もう可い、起きな。何という不景気な顔色だよ。」
「笑いごっちゃアありませんぜ。根っから儲からねえ役廻だ。」
と屑屋は苦も無く起上りぬ。健全無病の壮佼なり。知らず何が故に疾病を装いて、貴婦人の通行を妨げしや。
頬被を取りて塵を払い、「危険々々。御馬前に討死をしようとした。安くは無い忠臣だ。」