煤煙の臭ひ
本文約24,400字 ・ 読了時間 約49分
あらすじ(AIが作成しました)
工場労働者の丸田は、定住への誓いと放浪への渇望の間で揺れ動く日常を送る。ある日、港の波止場で美しい若い母親と子供を目撃し、自らの生活の欠乏を痛感する。下宿先でその女性やその夫と交流し、自身の将来や周囲との関係に葛藤する中で、彼は工場での日々の労働と自らの意志のあり方を問い直す。周囲の干渉や家庭内の不和にも直面しながら、彼は再びあてのない孤独な場所へと思いを馳せる。
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一
彼は波止場の方へふら/\歩いて行つた。此の土地が最早いつまでも長くは自分を止まらせまいとしてゐるやうで、それが自分のにぶりがちな日頃の決心よりも寧ろ早く、此の土地を去らねばならぬ時機が迫つて来はせぬかといふ、妙に心細い受け身の動揺の日がやつて来たのだ。勿論それは彼の思ひ過ぎでもあつた。これまでも屡々あつたことだ。こんな気持の時は足がおのづからステーションや波止場の方へ向くのであつた。ステーションへ行つて思ふ都会の駅名を恋人の名でも読むやうになつかしく眺めるのも一種の心遣りだつた。波止場へ行つて汽船賃をしらべて旅費の都合を考へたりすることもにえきらぬ自分の心に対する一種の示威運動であつた。そこには人足達の肩を煩はしたいろ/\の貨物の山、起重機で捲き揚げられた鉄材、思ひ/\に旅装をして汽船に乗り込む客、艀から上陸する人、そこには常に放浪病者を魅惑するやうな遠い国々の幻影が漂うてゐた。然し此の土地が全く面白くなくなつた彼のやうな気持とは恐らく正反対の心持でわざ/\此の小都会に望みを抱いてやつて来る者もそこにはある。或は夫婦づれの、或は独身者らしい脛一本の労働者が、青服の着流しで、手荷物を振分に背負つて、ぼつ/\桟橋から上陸して来るのを見ると、彼はちよつとまた妙な気がして考へをにぶらせるのであつた。現在の自分の心の迷ひを今一度圧し鎮めてよく反省して見ないわけには行かなんだ。