TRENDIA CLASSIC
煤煙の臭ひ
宮地嘉六
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一
彼は波止場の方へふら/\歩いて行つた。此の土地が最早いつまでも長くは自分を止まらせまいとしてゐるやうで、それが自分のにぶりがちな日頃の決心よりも寧ろ早く、此の土地を去らねばならぬ時機が迫つて来はせぬかといふ、妙に心細い受け身の動揺の日がやつて来たのだ。勿論それは彼の思ひ過ぎでもあつた。これまでも屡々あつたことだ。こんな気持の時は足がおのづからステーションや波止場の方へ向くのであつた。ステーションへ行つて思ふ都会の駅名を恋人の名でも読むやうになつかしく眺めるのも一種の心遣りだつた。波止場へ行つて汽船賃をしらべて旅費の都合を考へたりすることもにえきらぬ自分の心に対する一種の示威運動であつた。そこには人足達の肩を煩はしたいろ/\の貨物の山、起重機で捲き揚げられた鉄材、思ひ/\に旅装をして汽船に乗り込む客、艀から上陸する人、そこには常に放浪病者を魅惑するやうな遠い国々の幻影が漂うてゐた。然し此の土地が全く面白くなくなつた彼のやうな気持とは恐らく正反対の心持でわざ/\此の小都会に望みを抱いてやつて来る者もそこにはある。或は夫婦づれの、或は独身者らしい脛一本の労働者が、青服の着流しで、手荷物を振分に背負つて、ぼつ/\桟橋から上陸して来るのを見ると、彼はちよつとまた妙な気がして考へをにぶらせるのであつた。現在の自分の心の迷ひを今一度圧し鎮めてよく反省して見ないわけには行かなんだ。