老残
本文約21,500字 ・ 読了時間 約44分
あらすじ(AIが作成しました)
戦後の深刻な困窮の中、東京の焼野原で暮らす作家は、空腹を凌ぐために印章を彫る特技を活かし始める。引揚げ者や街の知人に印章を彫ることで僅かな糧を得る日々を送る中で、人生を水ものと捉え、過酷な現実を受け入れながら孤独を噛みしめる。除夜の鐘を聞きながら、自らの波乱に満ちた過去を回想し、死をも見据えて生き抜いてきた六十五年の生涯を振り返る姿を描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
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終戦と共に東京の空が急に平穏にかへつたときは誰もがホツとしたであらう。が、それから当分の間、あの遠くでならす朝夕のサイレンの声が空襲警報のやうに聞えて、いやだつた。鳴らすやつもさうした錯覚をねらつて、からかひ半分にやつてゐるやうにさへ思へたものだ――進駐軍が蜿蜒幾十台ものトラックで米大使館の周辺に乗りつけるやトラックから一斉に飛び降りた兵隊らが、いきなり道路脇にじやあじやあと放尿をやらかすその光景にも何かしら一種のもの悲しさを覚えさせられたものである。それからミズーリ艦上の降伏調印――当時の悲しい思ひ出は、今、口ではいへない。が、それからの二三年間の深刻な困苦の連続をかへり見るとよくも耐へて来られた……と誰しも思ふだらう。雑草も喰ひ、カボチャの大きくなるのが待ちきれずにボールほどのやつをもぎとつて喰つたこともある。胃の弱い私でさへ喰ふ物が乏しいとなると、喰ひ意地が殺気だつてまるで底なしの食慾だつた。今思ひ出してもふき出したくなるが、或る日のたそがれどき、人通りの絶えた溜池通りを歩いてゐると、サツマイモが一つころがつてゐる。相当にでつかいやつ。そのまた二三メートルさきの方にも落ちてゐる。多分、自転車のうしろの荷台からこぼれ落ちたものであらう。おかげで夕飯のたしになつたが、それからといふもの、日の暮れがたに町を歩いてゐると馬糞がサツマに見えて、ついサンダルのさきで軽く小あたりに蹴つて見たくなつたものだ。
或る日、米国大使館から芝明舟町の方へとだら/\坂を下りて行く途中、丁度もとの大倉商業の前あたりの電柱の陰に、新聞紙にキチンとくるんだ折箱らしいものがおいてあつたので、恥を忍んで開いて見ると、何ときれいな折箱の中に銀めしのお握りが寿司詰に入つてゐるのだ。さすがに私は一瞬間考へた。人にほどこすために置いたものか、それとも……と私には判断がつかぬまゝに、もとの通りに新聞紙にくるんで、うしろ髪ひかれる思ひで行きすぎたが、戻りに見るともうそれはなかつた。