最近、同じ作者の「にんじん」がいろいろな事情に恵まれて短期間に不思議なくらい版を重ねたのであるが、訳者はもちろん、この「ぶどう畑」が「にんじん」のごとく一般の口に合うとは思っておらぬ。ただ、「にんじん」によって作者ルナアルの一面を識った読者に、あらためて「ぶどう畑」の一面を紹介することにより、このたぐいまれな芸術家の風貌をやや全面的に伝えることができたら、訳者の望は足りるのである。
「にんじん」が、彼の少年時代を苦き回顧の情を以て綴ったものとすれば、「ぶどう畑」は、よりストイックな心境を透して、人生と自然とに慎ましい微笑を送っていることがわかる。
浪漫的ユモリスムから古典的自然主義への進展は、彼に取っては一つの飛躍であり、転向であるとさえ思われるのであって、小説「にんじん」に含まれる「俗情」の意識的暴露は、ルナアルの一生を通じて、悲劇的な執拗さを示しているにもせよ、読者を反発せしめるものがしだいになくなって来た。
「ぶどう畑」において、特にわれわれを愉しませるものは、彼自ら、「幻象の猟人」と呼ぶにふさわしい観察の記録である。
彼が好んでつかう比喩の形式を、思想の貧しさとして嗤うものもあるが、比喩は、彼の場合、単なる比喩ではなくして、生命の瞬時の相である。彼は日記にもそのことを記しているが、人はある時はそれに気づかず、あるときはふと、それに気づくことがある。時と場所とをかえて彼の作品を読むがよい。かつてはさほど印象の鮮やかでなかった個所が、とつぜん、いきいきとわれらの眼前をよぎるであろう。彼はつねにかくある姿を描こうとしない。また、何人も、かく感じ得る状態を捉えようとしない。その代り、人間なら誰でも、ふとした機みに、ある限られた条件で、そのものを観、聞き、触れる場合には、必ずそう感じなければならぬ一つの姿を、驚嘆すべき正確さを以て言葉に写す技を心得ているのである。「卑小さの偉大さ」という評言は、いわば、俗眼に映ずる非凡な風景を指すのであろう。