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TORENDIA

百万人のそして唯一人の文学

本文約4,400字 ・ 読了時間 約9分

あらすじ(AIが作成しました)

戦後、純小説と通俗小説の境界が曖昧になり、純小説を単なる通過点や踏み台と見なす風潮や、ジャーナリズム主導の打算的な作家の増加が顕著である。本書は、純小説を作者自身との対話であり自己を賭けた仕事と定義する一方、即効性を重んじる新聞小説等の通俗小説が持つ仕組みを批判的に考察する。文学がいかにあるべきかという根本的な問いを軸に、読者への迎合を排した純小説の可能性と、真の文学精神のあり方について論じる。

青野季吉

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🎧 百万人のそして唯一人の文学 / 朗読音声: VOICEVOX:玄野武宏

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純小説と通俗小説の限界が、戦後いよいよ曖昧になつて来た。これは日本に限つた現象ではないらしい。この現象は、いろいろな意味にとられるが、根本的には、純小説をしつかり支へてゐた個人主義、ないしは個人性が、それだけ崩れてきたのだとみられる。そしてそれだけ、小説がジャーナリスチックになり、ジャーナリズムに征服されたのだとみられる。

昨年のことだが、わたしは妙な経験をした。一人の文学青年(実はもう青年ではないが)が原稿を見てくれと云つて玄関に置いていつた。しばらくしてその青年から手紙が来て、先日の原稿を友達にみせたら、まだこれは純小説で、通俗小説になつてゐないから駄目だと批評された、自分もさう思ふ、自分はこれから大いに勉強して、りつぱな通俗小説をかくつもりだ、といふ意味のことが、大真面目にかいてあつた。わたくしは唖然とした。

純小説は、文学青年の手習ひみたいなもので、通俗小説に到達する段階にすぎないと、この人達は合点してゐるらしい。驚くべきことである。戦前までは、どんな幼稚な文学青年にも、こんな錯誤はみられなかつた。これも戦後現象の一つで、純小説と通俗小説の限界が曖昧になつてきたことの影響とみていいであらう。

作家たちの仕事振りをみても、先づ純小説をかいて、文壇に認められることに努め、それがどうにか達せられると、予定の計画のやうな早さで、通俗小説へ転身する。さういふ打算的な作家が多くなつた。もうあんな小説をかき出したのかと、眼をこする場合も尠くない。実際の気持はともかく、形からみれば、純小説はあきらかに踏み台で、目標は通俗小説にあるわけである。幼稚な文学青年の錯誤も無理とはいへない。

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