永い間「影のリズム」といふ言葉を私は獨り考へて來た。「影のリズム」といふ言葉は私が獨自の私の意圖する童謠の世界に雄飛させようと務めて來たものであつたが今やつとそれの一端にはつきりした認識を得ることが出來たと思ふのである。
童謠の本體について各人各樣の意見を持つてゐるが、私が現代の童謠の上に更に新しく意圖するものは自由律童謠とでもいはうか、勿論童詩といふものがあつて新に自由律童謠を今更持ちだすことは屋上屋を架すの責言を受けると思ふのであるが。私の提唱するものはそれと僅かに異るものである。
即ち詩の底を流れるリズム、文字を流れるリズムを排げきするのではないが詩の底を流れるほのかなるリズムを愛すると共に外面的、プログラムミユージツク的なリズムをおさへて底に音樂的リズムをより多く盛るのである。抽象的なことなので了解に困難であるがさてこゝに、適切な作品を持たない殘念さの中に居る。
兒童文學の新興機運に直面して新に兒童文學の分野に於ける各々の再檢討が問題とせられねばならぬ、童話會がマンネリズム、それはジアナリズムの影響する所の最も大きな童話に於て必然的なものではあるが、さて吾々がこの雰圍氣にどこまで入つて行かうとするか。
一作毎に自己への再檢討を忘れない今でこそ斯うした聲を張りあげることも得るがさてこれを以て衣食住をあがなふ事になると又問題は別となつて展開してくる。
兒童の心に叫びかけるものが童謠であり童話であるとき兒童が本來リズムを愛するといふとき、所謂外的リズムを高調する童謠の價値は如何なるものであらうか。
兒童には概して吾々が思つてゐる程に讀書力のあるものではない、然るに吾人は童謠を與へようとする。
童話と童謠との兒童に與へるときの價値を考察するとき兒童が本來リズムを受くるからといつて童謠をリズミカルにするのはどうかと思ふのである。