芝、麻布
本文約7,100字 ・ 読了時間 約15分
あらすじ(AIが作成しました)
慶應義塾の教師として劇文学を講義した経験や、芝明舟町で過ごした日々、高輪の怪談が囁かれる屋敷での生活、第二次「新思潮」の同人たちとの交流、そして麻布の竜土軒で開かれた「竜土会」に集った文壇の面々との思い出を綴る。明治から大正にかけての東京を背景に、著者が出会った個性的な人々や、今はなきかつての空気感を追憶し、時代の移り変わりと自身の足跡を回想する。
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『あばよ、芝よ、金杉よ。』
子供の頃、一緒に遊んでいた町の子達と別れる時、よく私達は歌のように節をつけて、こういった。
私は麹町の富士見町で育った。芝といえば――金杉といえば――大変遠いところのような気がした。
『あばよ、芝よ、金杉よ。』
今でも、この一句を口ずさむと、まだ電灯のなかった、薄暗い、寂しい、人通りの少ない、山の手の昔の夕暮が思い出される。
その芝というところと私が関係を持つようになったのは、三田の慶応義塾へ通うようになってからであった。
私が下町の放浪生活をやっている時代であった。新佃島の海水館という下宿に、ただ一人で寝起をしていた頃、或日、永井荷風君から電話がかかって来た。森鴎外先生が慶応義塾の文科の顧問になられたについて、自分も三田へ教えに行くことになったが、君にも出てもらいたいという先生のおことばだから、宜しくたのむというのである。
私は帝大の課程こそおえていたが、学校の教師になろうなどという考えは毛頭なかったし、またなれるという自信もなかった。併し、鴎外先生のおいいつけだというのがうれしくて、直ぐと承知してしまった。
それから、一週に二時間ずつ三田の文科へ劇文学の講義をしに行くことになった。尤も、教務からは何の講義をしろという命令もなかったのである。時間表には、いつもただ「英文学」と書いてあった。
慶応義塾へは、それからずうっと――その間に、向うから休ませられたり、こっちから休んだりしたことはあったが――兎に角、大震火災の年まで通い続けた。
慶応義塾の生活では、なんといっても、ヴィッカアス時代が、一番なつかしい。ヴィッカアス時代というのは、今の大ホオルの後にあるヴィッカアスと称えられる小さな独立会館が、文科の教室になっていた時代のことである。