梅龍の話
本文約4,500字 ・ 読了時間 約9分
あらすじ(AIが作成しました)
赤坂のお酌である梅龍が、友人たちと箱根へ湯治に出かけた際に遭遇した大水の体験を語る。滞在先の宿が浸水し、避難先の芸者屋で極限状態の夜を過ごす様子や、避難生活のさなかに起きた財布の騒動、さらに帰り道に同伴した姉を大きな石で驚かせた悪戯などが奔放に綴られる。のちに被災時の混乱で他人の下駄を履き間違えて持ち帰っていたことに気づき、相手に謝罪するまでを描く。大水という困難な状況下でも、屈託なく我が道を行くお酌の奇妙な体験談である。
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著いた晩はどうもなかつたの。繪端書屋の女の子が、あたしのお煎餅を泥坊したのよ。それをあたしがめつけたんで大騷ぎだつたわ。でも姐さんが可哀さうだから勘辨してお遣りつて言ふから、勘辨してやつたの。赤坂のお酌梅龍が去年箱根塔の澤の鈴木で大水に會つた時の話をするのである。姐さんといふのは一時は日本一とまで唄はれた程聞えた美人で、年は若いが極めて落ちついた何事にも襤褸を見せないといふ質の女である。これと同じ内の玉龍といふお酌と、新橋のお酌の若菜といふのと、それから梅龍の内の女中のお富といふのと、斯う五人で箱根へ湯治に行つてゐたのである。梅龍は眼の涼しい鼻の細い如何にも上品な可愛い子だが、食べる事に掛けては、今言つた新橋の若菜と大食のお酌の兩大關と言はれてゐる。梅龍の話に喰べ物の出て來ない事は決して無い、水の出たのはその明くる日の晩よ。あたしお湯へ這入つて髮を洗つてゐたの。洗粉を忘れて行つたんでせう。爲方がないから玉子で洗つたのよ。臭くつて嫌ひだけど我慢して。さうすると、なんだか急にお湯が黒くなつて來て、杉つ葉や何かが下の方から浮いて來るのよ。妙だと思つてると、お富どんが飛んで來て、「水ですから、逃げるんですから、水ですから、逃げるんですから。」ッて大慌てなの。何だか分らないから、よく聞くと、山つなみとかで大水が出たから逃げるんだつて言ふんでせう。それから大急ぎでお湯を出たの。髮がまだよく洗ひ切れないんでせう。氣持が惡いから香水をぶつかけたら、尚臭くなつちまつたの。爲方がないから洗ひ髮をタオルで向う鉢卷なの。好い著物は汚すといけないからつて、お富どんがみんな鞄の中へ納つてしまつたんでせう。あたし宿屋の貸浴衣の長いのをずるずる引き摺つて逃げ出したの。でも若し喰べ物が無くなると困ると思つたから、牛の鑵詰と福神漬の鑵詰の口の明けたのを懷に捩ぢ込んで出たの。ところが慌てて福神漬の口の方を下にしたもんだから、お露がお腹の中へこぼれてぐぢやぐぢやなの。氣味が惡いつたらなかつたわ。