TRENDIA CLASSIC

寡作流行作家

平野零児

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昨年の晩秋、福井ラジオの営業局長をしている池田左内君が上京のついでに、私の陋居を訪ねて来た。昔上智大学の新聞科で教壇というよりも、主として附近のオデン屋や、新宿の酒場え[#「酒場え」はママ]連れて行き、三、四の学生に他愛のない放談を聞かせただけだったが、彼はそのことで今に私を先生と呼び、教え子だったとしている一人であり、絶えず師の礼をとり、時々越前ガニや、ツグミやウニを送ってくる妙な男である。

戦争が苛烈になって、麻布の家が強制疎開をされると、私の女房の疎開をすすめ、土地の素封家である彼の郷里福井の家え[#「家え」はママ]預ってくれもした。

「先生、その額は面白いですな。誰の字ですか。正気の字じゃないけど」

彼は私の食堂にかけている、可なり大きな額を見乍ら焼酎のコップを舐めた。額には勢いはいいが、漫画とも童画ともつかぬ、魚らしい絵に、

『青きは鯖の肌にして、黯きは人の心なり』と判読せねば判らぬ字が踊っていた。これは戦前に、尾崎士郎君が私の麻布の家に遊びにきて、酔余に書きなぐったものである。伝説によると、尾崎君がまだ名をなさない学生の頃、小遣いに窮して当時売出しの桃中軒雲右衛門のために浪花節を作って送ったという、その冒頭の名文句だということである。無論それは雲右衛門のとるところとはならなかった。しかし尾崎君は酔うとその一節を自分でうなった。その昔、私も曾我廼家五九郎一座の作者志願をしてハネられたことがある。天才にはこうした話が一つはあるものである。

中国へ去って永く帰らなかった私は、分散して預けた乏しい家財も蔵書も戦災で失っていた。福井の疎開先でも爆撃と地震で、再度焼け出され、無一物になった家内も一切を失っていた。ただ僅かに世田ヶ谷新町の親戚に預けてあった一個の本箱に、知人や友人の書画の表装をしないままに巻いてあったのが、その中に残っていた。

新世帯同様の借家を飾る何物もないので、その中から尾崎君の風格のある酔筆を撰んで額にしていたのである。

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