[#ページの左右中央]
序章
[#改丁]
女の出発
「たいそう暗いが、キヌさん、もう何時ごろかのう?」
「まあだ、三時にはなりゃあすまいね」
「やれやれ、この谷は一日がよその半分しかないよ。仕事も半分しか、でけやせん」
「その代り、夜がよその倍あるわ」
「倍あったって、電燈はつきゃせんし、油は高いし、寝るしか用がない。この村の者がどんどん都に出て行くわけがわかるよ。遠いところに行く者は、ハワイやブラジルまでも行っとる。成功しとる者もたくさんある。その成功した者は、もう二度とこんな草深い田舎には、かえって来やせん。かえらんのがほんとよな」
「マンさん、あんたもどうやら、出心がついたようにあるねえ。兄さんの林助さんは、関門の方に行ってなさるということだが、元気にして居りんさるかね」
「はい、門司で、沖の仕事をして、儲けだしとるとかで、わたしに、出て来んか、って、なんべんも手紙をくれなさる」
「だけど、たいがいなら、港なんどというところには出んがええよ。人気が荒うて、若い娘はモミクチャにされるというけえ。……マンさん、もう、煙草葉のばすこと、やめんさい。帰ろうや」
「お父っあんが、楽しみに待ってなさるけえ」
「親孝行もんよ。おふくろも安心でがんひょう。でも、その煙草葉、大丈夫なのけえ?」
「大丈夫とも」
深い谷の底である。四方の山がきりたっているので、この部落には、朝の光線がさすのはおそく、日の暮れるのは早い。まして、日の短い秋であるから、まだ三時というのに、もう黄昏のようだ。部落の名は、広島県比婆郡峯田村字峯。
はげしいせせらぎの音をたてる谷川の岸で、二人の若い村の娘が話をしている。健康そうなのは共通しているが、マンの方は丸顔の小柄、キヌの方は長顔で、おそろしく背が高い。
粗末な木綿着のマンは、川岸にある二段歩ほどの煙草畠にしゃがみ、しきりに落ちた古葉をさがして重ねる。ていねいに、皺をのばす。なれた手つきである。
野良着で、手に鎌を持っているキヌの方はススキの林のなかに、あおむけにひっくりかえって、
「やあれ、もう、狐さんたちが鳴き騒いどらあ」