蓼喰う虫
本文約110,000字 ・ 読了時間 約221分
あらすじ(AIが作成しました)
冷え切った夫婦関係にある要と美佐子は、美佐子の不倫相手である阿曽の存在を知りながらも、互いに踏み込むことを避け、曖昧な態度で日々を過ごしている。ある日、美佐子の父から人形芝居への誘いを受け、二人は出かけるか否かで逡巡する。要は妻との関係に苦悩しつつも、あえて妻を制止することなく、彼女の恋愛を是認するような態度をとり続ける。閉塞した夫婦の心理的な溝と、崩壊へ向かう関係の揺らぎを描く。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
その一
美佐子は今朝からときどき夫に「どうなさる? やっぱりいらっしゃる?」ときいてみるのだが、夫は例の孰方つかずなあいまいな返辞をするばかりだし、彼女自身もそれならどうと云う心持もきまらないので、ついぐずぐずと昼過ぎになってしまった。一時ごろに彼女は先へ風呂に這入って、どっちになってもいいように身支度だけはしておいてから、まだ寝ころんで新聞を読んでいる夫のそばへ「さあ」と云うように据わってみたけれど、それでも夫は何とも云い出さないのである。
「とにかくお風呂へお這入りにならない?」
「うむ、………」
座布団を二枚腹の下へ敷いて畳の上に頬杖をついていた要は、着飾った妻の化粧の匂いが身近にただようのを感じると、それを避けるような風にかすかに顔をうしろへ引きながら、彼女の姿を、と云うよりも衣裳の好みを、成るべく視線を合わせないようにして眺めた。彼は妻がどんな着物を選択したか、その工合で自分の気持も定まるだろうと思ったのだが、生憎なことにはこの頃妻の持ち物や衣類などに注意したことがないのだから、―――ずいぶん衣裳道楽の方で、月々何のかのと拵えるらしいのだけれども、いつも相談に与ったこともなければ、何を買ったか気をつけたこともないのだから、―――今日の装いも、ただ花やかな、或る一人の当世風の奥様と云う感じより外には何とも判断の下しようもなかった。
「お前は、しかし、どうする気なんだ」
「あたしは孰方でも、………あなたがいらっしゃれば行きますし、………でなければ須磨へ行ってもいいんです」
「須磨の方にも約束があるのかね?」
「いいえ、別に。………彼方は明日だっていいんですから」
美佐子はいつの間にかマニキュールの道具を出して、膝の上でセッセと爪を磨きながら、首は真っすぐに、夫の顔からわざと一二尺上の方の空間に眼を据えていた。