TRENDIA CLASSIC

朝香宮殿下に侍して南アルプスの旅

木暮理太郎

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西山温泉

寝覚の耳元へいきなりザアと大雨の降るような谷川の音が聞えた。目を開けると暁の色はまばらに繰り寄せた雨戸の間を洩れて、張り換えた障子に明るく映っている。宵の内に迷い込んだものと見えて、一疋の日蔭蝶が障子の桟に止まっているのが目に付く。何処からともなく淡い温泉の香が漂って来る。静に起き上って外面を眺めた。白い靄の罩めた湯川の谷を隔てて対岸の盛な青葉の茂みの中に、山百合の花が点々と白く浮き出している。時折谷の空で鳴く杜鵑の声が、水音にも紛れず耳に響く。

顔洗いがてら下へ降りて湯に入った。湯は高い岩壁の下から湧き出して、一部は家の中に導かれ、一部は其儘岩の浴槽に湛えられている。湯滝なども作ってある。それに肩を打せながらジッと浸っていると、もう山へ入って大分経ったような気もする。けれども実は昨日朝香宮殿下のお伴をして鰍沢を出発し、南アルプスの登山口の一であるこの西山温泉へ着いた許りなのだ。環境の大なる変化が時のへだたりをも大きく見せるのである。殿下に随伴する一行は、お附武官の藤岡少佐、宮家附の浅野宮内省属、山田写真師、槇君及私の外に、軍用鳩調査委員の伊東中尉が八羽の鳩を携えて参加した。山梨県庁からは石塚都留中学校長、加島医師、丸山警部補、斎木巡査の四人がお伴し、それに『東京朝日』の特派員大東氏、同じく『報知』の森山氏を合せても、十二人に過ぎないのであるが、人夫は途中から帰らせる者を除いても、四十人近くを要するので、一行は総計五十人を超えていた。こんな大人数の登山隊が南アルプスに入り込んだのは、恐らく空前であったろうと思う。

鰍沢では古那屋が御旅館であった。七月十九日の午後二時頃に殿下が御着きになると、お伴の人達は申す迄もないが、新聞社や通信社の特派員達も、この家を宿とする方が何かにつけて好都合なので、階下はどの室も忽ち満員の状況であった。夜になっても買物などに出歩く人の多いせいか、町の中は何となくざわめいていた。

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