TRENDIA CLASSIC
僧堂教育論
鈴木大拙
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昔は方外の友などといえば、面白い聯想もあったものである。勿論近代といえども、僧侶殊に禅僧については、尚従来の伝説やら歴史やら挿話などが、くっついているので、わしらも審美的に方外の友に対して一種の興味を有っていることは事実である。併しこんな趣味がいつまでも続いて行くのがよくないのかも知れぬ、所謂る中古的骨董的趣味とでもいうべきもので、進化の歴史からは、こんな低徊主義は自ら亡びて行くのが本当かも知れぬ。今日の多くの禅僧達には
楊岐乍住屋壁疎 楊岐乍めて住するや屋壁疎らにして
満床皆布雪真珠 満床皆な布く雪の真珠
縮却項暗嗟吁 項を縮却め 暗かに嗟吁し
翻憶古人樹下居 翻って憶う古人の樹下に居せしを(『楊岐法会語録』)
などと貧乏に安んずる清僧も余りないようであり、又
摧残枯木倚寒林 摧残せる枯木寒林に倚り
幾度逢春不変心 幾度か春に逢うも心を変えず
樵客遇之猶不顧 樵客之に遇うも猶お顧ず
郢人那得苦追尋 郢人那ぞ苦に追尋するを得ん(『景徳伝燈録』巻七大梅法常章)
というような風流気のある仙僧も見受けぬようである。これに反して日曜学校をたてたり、病院をこしらえたり、孤児院の世話をしたり、小学校や中学校を経営するものは、そこここに見当らぬこともない、これが禅僧の時勢に適しいやり方なのであろうか。女房もあり子供もあり、葷酒はいうに及ばず肉食も勝手にやるようになった今日では、禅僧について居た古来の聯想や歴史を全く棄てて、当世風になるのが、所謂る和光同塵の精神かも知れぬ。併しわしらは今日までも尚禅僧の君等を方外の友人として見たいのである。