鹿山庵居
本文約5,900字 ・ 読了時間 約12分
あらすじ(AIが作成しました)
休日を恋しく思う心や、階級を求め束縛を作り出す人間心理を語る。著者は休息の機会を得て、二十年前に坐禅に励んだ思い出の地である鹿山へ籠もる。山居での日々を通じ、かつての貧しい学生時代の修行や、洪川老師をはじめとする師僧たちとの記憶、禅の修行における戦場のような厳しさ、そして月明かりの下で味わう静寂を綴り、日常に戻る前の深い感慨を記す。
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人の心と云うものは本来縛らねばならぬように出来ておるのかどうかは知らぬけれども、吾等は何かかんか云うてこの心を繋ぎ、この身を苦しめておる。何もない処にぽかんとしておることが出来ぬ。もしそんなことでも有ると、自分で屹度何か手頃の束縛を造り出す。蜘蛛が巣を作り、蚕が繭を作ると全く一般である。何かと云うと、平等であるとか、一視同仁であるとか云う人間が、社会なるものを造ると、此処に貴族と云うもの、平民と云うものをおき、その貴族の中にも公侯伯子男と順序を並べ、また一般の市民や役人の中にも位階を設け、正一位であるとか、従八位であるとかやり出す。こんなものが出来ると、男爵になっておるより伯爵にでもなって見たくなり、正六位と云うよりも従二位として欲しかったりする。それだけならそれで悪くもあるまいが、この階級が人格の上下を批判するもののように思われて来る。正一位の人が正八位の人より、その人格において、特に秀でたものと想像せらるる。また公爵の人が男爵の人よりも何だか別格の人間で毫光でも射すかと怪しまるる。ここに到るとその弊害に堪えられぬと云うてよい。まだある、人爵を離れ、位階を超えておると思わるる僧侶でさえ、正三位とか侯爵とか云うものが欲しくなって、人天の大導師もとんでもない狂言を演ずることになる。馬鹿さ加減もまずこの辺にして止めて欲しいものである。