TRENDIA CLASSIC

伊藤左千夫年譜稿

森林太郎

1 / 5

元治元年。

八月十八日左千夫上總國山武郡成東町殿臺に生る。伊藤良作の四男にして、末子なり。母はなつ。

明治六年 十歳。

小學に入る。

明治十年 十四歳。

佐瀬春圃の塾に入り、漢籍を學ぶ。

明治十四年 十八歳。

春東京に入り、籍を明治法律學校に置く。秋眼を病む。(眼底充血、進行性近視眼)尋いで退學歸郷す。

明治十五年 十九歳。

夏富士山に登る。

明治十八年 廿二歳。

十一月金二圓を懷にして、再び東京に入り、實業家たらんとす。廿二年に至るまで京濱間の牛乳店に使役せらる。

明治廿二年 廿六歳。

春本所區茅場町三丁目十八番地に牛乳搾取業を始む。當時毎日十八時間勞作し、同業者中第一の勉強家と稱せらる。

十一月妻とくを納る。上總國山武郡上堺村新島伊藤重右衞門の長女なり。明治五年八月五日生る。

明治二十三年 廿七歳。

十一月長男剛太郎生る。

明治二十五年 廿九歳。

六月廿五日長男夭す。

明治廿六年 卅歳。

六月十八日長女妙生る。

是年より伊藤並根に就きて茶の湯を學ぶ。同時に和歌の教をも受けしものの如し。

明治廿八年 卅二歳。

十二月廿七日二女梅路生る。

是年伊藤並根と京都に遊ぶ。

明治卅年 卅四歳。

十月卅日三女蒼生生る。

是年より二三年の間桐の舍桂子(關澄氏)の月次歌會に出席す。桂子は橘東世子の門人にして、疲の病あり左千夫の魁偉を以てして對坐談論す。頗る奇觀なりき。岡麓その席に列してこれを見、後話となしたりき。左千夫當時春園と號す。

明治卅一年 卅五歳。

是年竹の里人正岡子規「歌よみに與ふる書」、「人々に答ふ」等を新聞「日本」に連載す。左千夫歌の意匠、格調、文學上の地位等に關して、竹の里人と論爭す。「人々に答ふ」の文中春園に答ふる語あり。

明治卅二年 卅六歳。

四月より根岸短歌會を正岡子規の家に開かる。

九月廿一日四女千種生る。

明治卅三年 卅七歳。

一月三日始めて正岡子規を訪ふ。

是月より根岸の歌會にむ。

森林太郎の他の作品