雛
本文約11,100字 ・ 読了時間 約23分
あらすじ(AIが作成しました)
徳川家崩壊後の困窮により、紀の国屋の父は大切にしていた雛を横浜の外国人に売却することに決める。開化思想を持つ兄は雛を旧弊と蔑むが、幼い娘は雛との別れを惜しみ、売却前夜の悲しみと動揺の中で眠りにつく。夜半、ふと目を覚ました娘は、行燈の薄明かりの中で雛を並べて一人で見つめる父の姿を目撃する。この光景が現実か幻かは定かではないが、娘は父の秘めた情愛を感じ取る。
リクエストが集まると、作家に音声化の需要が伝わります。
💰 この本を応援する(投げ銭)
箱を出る顔忘れめや雛二対 蕪村
これは或老女の話である。
……横浜の或亜米利加人へ雛を売る約束の出来たのは十一月頃のことでございます。紀の国屋と申したわたしの家は親代々諸大名のお金御用を勤めて居りましたし、殊に紫竹とか申した祖父は大通の一人にもなつて居りましたから、雛もわたしのではございますが、中々見事に出来て居りました。まあ、申さば、内裏雛は女雛の冠の瓔珞にも珊瑚がはひつて居りますとか、男雛の塩瀬の石帯にも定紋と替へ紋とが互違ひに繍ひになつて居りますとか、さう云ふ雛だつたのでございます。
それさへ売らうと申すのでございますから、わたしの父、十二代目の紀の国屋伊兵衛はどの位手もとが苦しかつたか、大抵御推量にもなれるでございませう。何しろ徳川家の御瓦解以来、御用金を下げて下すつたのは加州様ばかりでございます。それも三千両の御用金の中、百両しか下げては下さいません。因州様などになりますと、四百両ばかりの御用金のかたに赤間が石の硯を一つ下すつただけでございました。その上火事には二三度も遇ひますし、蝙蝠傘屋などをやりましたのも皆手違ひになりますし、当時はもう目ぼしい道具もあらかた一家の口すごしに売り払つてゐたのでございます。
其処へ雛でも売つたらと父へ勧めてくれましたのは丸佐と云ふ骨董屋の、……もう故人になりましたが、禿げ頭の主人でございます。この丸佐の禿げ頭位、可笑しかつたものはございません。と申すのは頭のまん中に丁度按摩膏を貼つた位、入れ墨がしてあるのでございます。これは何でも若い時分、ちよいと禿げを隠す為に彫らせたのださうでございますが、生憎その後頭の方は遠慮なしに禿げてしまひましたから、この脳天の入れ墨だけ取り残されることになつたのだとか、当人自身申して居りました。……さう云ふことは兎も角も、父はまだ十五のわたしを可哀さうに思つたのでございませう、度々丸佐に勧められても、雛を手放すことだけはためらつてゐたやうでございます。