十円札
本文約8,600字 ・ 読了時間 約18分
あらすじ(AIが作成しました)
金欠に悩む教官・堀川保吉は、東京での娯楽を諦める窮地に立たされていた。そんな折、同じ学校の首席教官・粟野から、密かに十円札を渡される。保吉は当初の困窮を脱する機会を得て狼狽するが、結果としてその十円札を大切に保存したまま、別の手段で当面の資金を獲得する。経済的苦境と精神的自尊心の間で揺れ動く青年が、予期せぬ厚意と偶然によって平穏な日曜の夕暮れを迎えるまでを描く。
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ある曇った初夏の朝、堀川保吉は悄然とプラットフォオムの石段を登って行った。と云っても格別大したことではない。彼はただズボンのポケットの底に六十何銭しか金のないことを不愉快に思っていたのである。
当時の堀川保吉はいつも金に困っていた。英吉利語を教える報酬は僅かに月額六十円である。片手間に書いている小説は「中央公論」に載った時さえ、九十銭以上になったことはない。もっとも一月五円の間代に一食五十銭の食料の払いはそれだけでも確かに間に合って行った。のみならず彼の洒落れるよりもむしろ己惚れるのを愛していたことは、――少くともその経済的意味を重んじていたことは事実である。しかし本を読まなければならぬ。埃及の煙草も吸わなければならぬ。音楽会の椅子にも坐らなければならぬ。友だちの顔も見なければならぬ。友だち以外の女人の顔も、――とにかく一週に一度ずつは必ず東京へ行かなければならぬ。こう云う生活欲に駆られていた彼は勿論原稿料の前借をしたり、父母兄弟に世話を焼かせたりした。それでもまだ金の足りない時には赤い色硝子の軒燈を出した、人出入の少い土蔵造りの家へ大きい画集などを預けることにした。が、前借の見込みも絶え、父母兄弟とも喧嘩をした今は、――いや、今はそれどころではない。この紀元節に新調した十八円五十銭のシルク・ハットさえとうにもう彼の手を離れている。………